幻の吾南鉄道計画

資料が分かりにくく私が勘違いで書いているところがあると思います。おまけに文章も分かりにくい。とりあえず「昔こんな計画があったんだ」と思って読んでください。土佐電鉄88年史にはこのことが詳しく書かれています。

官営鉄道の誘致合戦

 春野町の辺りを吾南地域という。吾川郡の南だから吾南(たぶん)である。この辺りには鉄道が存在したことはないのだが、実は昔、この吾南地域に鉄道を通す計画があったのである。話は大正時代から始まる。まだ高知に国営の鉄道が開通していなかった頃、ようやく須崎から高知市方面に鉄道が敷設されることが決まったが、途中どこを経由するかが問題になった。大正5(1916)年頃より、伊野・佐川経由を主張する北側グループと、春野、高岡経由を推進する南側グループで誘致合戦が繰り広げられた。結果は現在の土讃線を見れば分かるが、佐川・伊野経由に決まった。この合戦に敗れた南側の住民から、官に代わり私営の鉄道が求められることになる。

最初の吾南鉄道計画

 吾南地区に最初に鉄道を計画したのは山本義孝という人らしい。山本氏は、高知鉄道の常務となって安芸線建設に貢献した人物だそうである。安芸線全通後の昭和5(1930)年、誘致合戦に敗れた吾南地区住民の希望に応え、高知吾南鉄道株式会社を設立した。翌年、昭和6(1931)年12月には、鉄道省から同社に対して免許が下りている。ルートは高知市桟橋から南へ進み、宇津野にトンネルを掘り、横浜、長浜、弘岡下、弘岡中を経由し、弘岡上に至るルート。加えて長浜から御畳瀬までの支線を加えたものであった。全線非電化で軌間は1067mmを採用し、浦戸湾の周遊や、吾南平野の農産物や高岡からの石灰石を運ぶことを目的としていた。。昭和10年の開業を予定していたが、トンネル掘削に多額の資金を必要とすることや、昭和2(1927)年頃に始まっていた金融恐慌不況がこの頃深刻化し、鉄道省から指定されていた昭和7(1932)年末までに着工できなかった。
土佐セメントや浅野が集まる工業地帯
土佐セメントや浅野が集まる工業地帯。製品を輸送するための専用線を引くことが計画されていた。
 その後山本氏は、土佐セメントに軌道の敷設権を譲渡している、吾南鉄道の発起人のなかに下元鹿之助と辻琢磨という人物がおり、土佐セメントの取締役であったことが譲渡の決め手になったようだ。また、鉄道でセメントの原料の石灰石を輸送すれば合理的という話になり、これも土佐セメントに譲渡を決めた大きな理由となった。事実、このとき最初の吾南鉄道計画のルートに、セメント工場への引込み線が追加されていたようである。昭和9(1934)年12月には鉄道省の認可が下り、同月の7日には工事の許可申請を提出している。しかし、この書類に不備があったため、当局から不許可という決定が下っている。どういうわけか、書類の訂正再提出のないまま4年間も放置され、再三書類の再提出を催促されるが、昭和13年(1938)になって、どういう事情があったのかは知らないが「事情が変わった」として、この申請は取り下げられている。以後、この計画は日の目を見ることなく、吾南鉄道は人々から忘れ去られることになった。

二度目の吾南鉄道計画

海回りの旧道
海回りの旧道
 それから9年後の昭和22(1947)年、吾南鉄道計画が再燃する。その前年の昭和21(1946)年12月21日、西日本の太平洋側に大被害をもたらした南海地震が発生する。その当時、高知市桟橋から長浜方面へ向かう、現在の県道34号線に当たる道には、まだ宇津野トンネルは存在しておらず、大海津見神社の前を経由する海沿いの道がそうであった。この海沿いの県道(今の旧道)は、今でこそ多くの区間が堤防によって守られているが、その当時、この地震によって地盤沈下が起こり、潮の高い日は通行不能になる恐れがあった。高知県と市が協議した結果、宇津野トンネルが計画され、震災復興対策事業として着工することになった。これは、今までの道を復旧しない(自治体で予算を出して復旧する)かわりに、国の予算でトンネルを掘るというものである。昭和22年3月、高知市議会で議決され、「宇津野にトンネルを掘って市中心部と南部地域との交通難を解消すると同時に、同地域の水産、農産物の輸送に資する」ことが決定された。この要望が、現在でも多くの交通を支える、宇津野トンネルの始まりである。そしてこのとき、同時に鉄道を敷設して市中央部と南部の交通難を緩和し、同時に浦戸湾周辺各漁港からの水産農産物の輸送を目論んだのである。これが二度目の吾南計画の始まりである。

高知急行設立と土電の競願

 昭和23(1948)年10月、高知急行電気鉄道株式会社が設立された。同社は高知市を起点に、春野町の諸木-芳原-秋山-弘岡下-弘岡中-弘岡上、仁淀川を渡って土佐市高岡-高石-新居を経由し宇佐に至るルートで運輸大臣に鉄道敷設免許を申請している。仁淀川を越えて土佐市の宇佐まで足を伸ばすという、最初の計画時に比べてかなり長い路線である。かつて吾南地域と同様に鉄道誘致合戦に敗れた、土佐市の住民の期待にも応えるものだった。地方鉄道として免許を申請しており、その社名が示す通り、急行電車を走らせる計画だったようだ。もし開通していれば、今日まで残っていたかどうかは怪しいものの、太平洋に面した地域の交通に大きく貢献しただろうと思う。
 さて、高知急行設立からわずか1ヶ月後、今度は土佐電鉄が桟橋通五丁目を起点に諸木-西分-弘岡中-新川で敷設免許を申請している。このルートは戦前に計画された吾南鉄道計画とほぼ同じである。土佐電鉄が競って申請した理由はわからなかった。しかし、すでに土佐電鉄は桟橋への路線を有しており、だったらこれをさらに伸ばそうというのは自然な発想だろう。

高知市の軌道計画と吾南鉄道計画の終焉

宇津野隧道
宇津野隧道。隣に新トンネルが掘られ、現在では下り専用となっている。
扁額
扁額。竣工日が刻まれている。
 いずれにしても、この計画の最大の難点はトンネルの掘削であろう。土佐電鉄は高知市と協議し、宇津野トンネルを鉄道と道路の併用とすることで話をつけている。もし完成していたら、日本でもほとんど実例のない、鉄道と自動車が「同じ穴」を走行するトンネルの一つになっていたはずである。羽越本線の新五十川トンネルがこれの実例として挙げられる。土電は地質調査費用として、高知市に10万円の寄付もしている。しかし実際の宇津野トンネルを見てもわかると思うが、とても電車と自動車が一緒に通れるようなトンネルではない。高知市との約束は果たされなかったのである。当時は戦災・震災復興のさなかである。道路と併用するとなると断面も大きくしなければならず、多額の国庫補助を必要とする。「高知のような地方の都市にそんなものは贅沢だ。とてもそれほどの予算を振り分けることは出来ない」と、建設省にバッサリと切り捨てられてしまったのである。当初の計画では、延長が620メートルだった。これを600メートル以下にせよとのお達しが下った。通常の道路トンネルとしても大幅に長かったわけだ。
 建設省のそういった意向を汲み、市ではより短い距離で南へ出られないか調査を行った。すると、現在のトンネルの位置より西の、四国電力の変電所の裏山の中腹を貫けば、最短距離で横浜地区へ出られそうだとうことが分かり、検討に入った。その頃高知市では、交通の便の良くない市南部の開発をすすめるため、この地域へ軌道を敷設する計画を持っていた。吾南地域へ出る軌道を西孕で分岐し、六泉寺、深谷を通って鷲尾山と土佐塾校の間の鞍部を越え、吉野、神田、鴨部、朝倉駅へと至るルートだった。変電所裏の少し高い所にトンネルを掘り、同時に軌道を西に分岐すると、ゆるい勾配で谷を越え、吉野地区へ出ることが出来、好都合だったのである。しかし、その中腹へ至るために取付道路を建設しなくてはならず、これにまた多額の予算を要することから断念せざるを得ず、最終的に現在のルートで落ち着いた。 完成したトンネルは、延長が何故か資料によって574メートルから598.2メートルまで幅があるが、とにかく600メートル以内というお達しはクリアしている。当初の計画では620メートルの併用軌道トンネルだったから、鉄道は言わずもがな、道路トンネルとしてもかなり妥協したことになる。震災復興事業として国の予算を頼ったのが足枷となってしまったわけだ。  吾南鉄道計画は、土電と高知急行による競願となったため、運輸省の裁定待ちとなっていたが、土電が昭和33(1958)年8月に資金難を理由に申請を取り下げた。10万円の寄付はほんとうの意味で寄付となったわけで、土電としては払い損であった。高知急行もまたまもなく、不明な理由により鉄道建設を断念している。その後吾南地区へ鉄道を通そうと計画するものは現れず、今日まで幻の鉄道となっている。