一番 須崎駅 |
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1.飛魚おどる黒潮を
わたりて来つる錦浦湾
須崎駅より高知線
栄ゆる港あとにして
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高知線の起点は須崎駅であり、歌もやはり須崎駅から始まっています。画像のプレートは駅舎の外壁に設置されています。高知線の歌詞の下には高知国鉄発祥の地の石版も掲げられています。錦浦湾は"きんぽわん"と読み、須崎湾と野見湾を(あるいは浦ノ内湾も)合わせた総称です。須崎の玄関口の須崎港は、リアス形状を持つ入江の奥にあり、古来より天然の良港として、漁業・物流の拠点として栄えてきました。軍港としても整備され、大正天皇の高知巡幸の際は、軍艦伊勢にて須崎港に上陸、高知入りしたとの記録もあります。現在でも国際貿易港に指定されており、まさに「栄ゆる港」という歌詞に違わぬ地位を築いているわけです。
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二番 吾桑駅 |
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2.ひだりに高き桑田山
蟠蛇ヶ森はいたヾきに
県下模範とうたはれし
水美しき吾桑の里
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二番の歌詞は吾桑駅の改札横の壁に掲げられています。昭和七年制定ですから、それ以前に存在しない駅や名所は登場しないわけです(大間駅は昭和35年開業。多ノ郷駅は昭和22年信号所より昇格)。ややこしい話なんですが、桑田山という山があって、その頂上に蟠蛇ヶ森という森があるわけではありません。蟠蛇ヶ森というのが正式な山の名前であって、桑田山というのは愛称であるか、その東側の中腹付近の地名を指します。弘法大師が花に染まる山をながめ、花に"染んだ山"と言ったのが、染うだ山→"桑田山"と変化したとか。こじつけな気もしますが・・・・。県外の人は"くわた"山と読んでしまうことが多いようです。桑田佳祐のせい? 歌の後半には水美しきとありますが、これについては聞いたことがありません。戦前ですから大抵の川は綺麗だったと思いますが、特筆するほど綺麗だったのでしょうか。現在は四万十川や仁淀ブルーがプッシュされ、その他の川はあまり話題になりません。
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三番 斗賀野駅 |
3.程なく汽車は斗賀野山
トンネル抜けて桂月の
筆に名を得し勝景の
虚空蔵山に遠からず
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斗賀野駅でも、改札横の壁に設置されています。斗賀野山というのもどうやら存在しないようです(少なくともgoogle先生は沈黙)。虚空蔵山と蟠蛇ヶ森の間の鞍部にある峠を斗賀野坂というので、それを指しているのかもしれません。吾桑駅と斗賀野駅の間には斗賀野トンネルという長いトンネルがあり、高知線の建設工事はこのトンネルから始まったといいます。虚空蔵山の山頂からは、須崎湾や高知市までが一望できる、一台展望スポットになっています。その山頂には、近代日本の作家、大町桂月が読んだ歌と句の碑と、本人の胸像が建てられています。歌にある桂月というのは、この大町桂月を指しているのでしょう。
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四番 五番 佐川駅 |
4.おぼろ夜を散るさくら花
花にうづまる 佐川町
青山文庫たずねては
維新の昔 しのぶなり
5.西佐川より 下りてゆく
山路はるけき 伊予の国
安徳帝のみささぎや
大樽の滝 このあたり
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四番と五番は佐川駅に設置されています。青山文庫は佐川駅の南西にある歴史資料館です。文庫といっても図書館ではありません。主に維新関係の資料や、地元領主旧深尾家らの資料が収蔵されています。その横にある牧野公園は桜の木が500本ほど植えられ、桜の名所100選にも選ばれているお花見スポットになっています。
五番の歌詞には西佐川とあるのに、なぜか四番と一緒に佐川駅に掲げられています。西佐川駅は後付け駅ではありません。むしろ佐川駅のほうが半年ほど開業が遅いですし、五番の歌詞は西佐川駅において然ると思うのですが、何か裏が・・・・? 安徳帝のみささぎも大樽の滝も、隣の越知町の名所です。越知町には平家の落人伝説が残っており、横倉山には安徳帝のみささぎ(つまりお墓)とされる場所が残っています。この手の伝承は西日本を中心に数多くあるのですが、一応県内唯一の宮内庁所管地ということもあり、越知町の自慢の種?となっています。大樽の滝は越知中心街の南南西にある落差34mの滝です。日本の滝百選にも選ばれた、高知を代表する名瀑です。
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六番 七番 日下駅 |
6.鶯うたい 時鳥
木霊がえしの 加茂の里
日下のわたり 杞柳畑
どうだん燃ゆる 錦山
7.古き文にもみ剣を
まつりまいらす 御神体
国を開きし 常立の
小村の宮に ぬかづかん
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六番の歌詞は加茂駅と日下駅の歌詞をまとめたものとなっています。設置場所は日下駅です。杞柳とはコリヤナギという植物らしいです。杞柳細工という、篭やバスケットなどの材料になるんだとか。昔の日下にはこれの栽培農家が多かったようです。村の北部にある錦山は、日本最大級のドウダンツツジ自生地です。秋から冬にかけて真っ赤に紅葉し、山を錦のように染めることから、錦山という名前が生まれました。
六番と一緒に掲げられている七番は、全面的に土佐二宮として知られる小村神社の紹介に充てられています。祭神は国常立命で、国宝でもある金銅荘環頭大刀を御神体として祀っています(国宝指定は戦後)。"ぬかづく"とは額突くと書き、額が地面につくほど深々とお辞儀をすることを意味するそうです。
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八番 伊野駅 現存せず? |
8.水澄みわたる 仁淀川
みんな み近く 清滝寺
大黒様と土佐紙に
伊野の繁華はいつまでも
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八番は伊野駅の改札口の横に掲げられていたはずなのですが、見つけることが出来ませんでした。駅員さんに所在を訪ねてみようと思いましたが、ちょうど不在でした。何処へ消えてしまったのでしょう?
仁淀川に架かる堂々たる八連トラス橋を渡ると伊野に着きます。伊野は土佐和紙で栄えた街であり、紙関係の有力者も輩出しています。今では多くが洋紙に取って代わってしまいましたが、まだまだ多くの製紙会社がこの伊野で操業しています。大黒様は通称で、正式には椙本神社といいます。伊野町中心街の北西に位置し、大国際(春の大祭)には十数万の人が訪れるといいます。この数字が確かなものかは分かりませんが、期間中は国道の渋滞で周辺道路がうんざりする事態になるので、それなりに賑わっていることは確かです。なお、清滝寺は伊野ではなく南の土佐市にあります。"みんな み"ではなく"みんなみ"(南)なのかも?
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九番 朝倉駅 現存せず? |
9.朝倉駅のほとりには
樗の花の 静かにも
四十四連隊 ますら夫の
武勲にひかる 兵舎あり
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朝倉駅でも、見つけることが出来ませんでした。やはり窓口は不在で、聞いてみることも出来ませんでした。
樗(おうち)はセンダンの別名です。朝倉駅の南に高知大学がありますが、そこは戦前、帝国陸軍歩兵第四十四連隊の兵舎がありました。内地で終戦を迎えた幸運な部隊として知られています。このキャンパス内に幾つか大きなセンダンの木が生えていますが、どうやら兵舎時代から植わっているようです。歌に出てくる樗の花は、この木を指すのかもしれません。ちょうど意味も繋がります。余談ですが、大学内には他にも、将校集会所の庭園や弾薬庫とされる建物など、戦争遺跡がいくつか残っています。また、大学南にある国立病院は陸軍病院跡であり、赤十字をかたどった装飾のある橋など、興味深いものがいくつも残っています。
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十番 旭駅 |
10その名もきよき鏡川
俯せば うつらん水かがみ
仰げばみゆる煙突の
はや つきにけり 旭駅
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改札横の壁にあります。高知市西部、鏡川の北側に位置する旭地区では、鏡川の豊富な伏流水を利用して紙やパルプを生産する工場が多く、歌にある煙突もこれらの工場のどれかだと思います。実際、大正時代に撮影された旭駅周辺の写真にも、煙を吐く大きな煙突が写っています。戦後も昭和の中頃に至るまで、多くの紙工場やパルプ工場が稼働していました。それらは後に高知に大きな負の遺産を残す事になるのですが・・・・
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十一番 十二番 高知駅 |
11鷹城のもと高知市は
四国無双の大都会
播摩屋橋は駅前を
一直線にまのあたり
12籐並宮にまうでては
名馬の誉れしのびつヽ
甲冑かざる懐徳館
三つ葉の紋のきらきらと
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11番にしてようやく高知駅に着きます。ハチロクの動輪と歌詞が一緒になったモニュメントが作られていました。昔は駅の南口広場に置かれていましたが、高架化直前頃は北口に移動していました。現在では行方不明になっています。(本当は所在地を知っているんですが、JRに問い合わせたところ非公開という扱いらしいので伏せておきます。と言っても、隠されているわけではないので、探せば案外簡単に見つかります)。
鷹城とは高知城の別名です。屋根瓦の灰色と壁の白漆喰が鷹の羽の色合いに似ているからだとか。
悲しいかな、現在では日本三大がっかり名所として知られているはりまや橋。高知駅から近い分、観光客はそれなりに訪れるようですが、あまり長居をする人はいないようです。川がないことで有名なはりまや橋ですが、昭和中頃まではちゃんと水が流れていました。旭にあったパルプ工場からの排水で、橋の下を流れていた堀川が汚濁し、埋め立てられてしまったのです。臭いものに蓋をするとは正にこのこと。汚染は浦戸湾にまで達し、魚介類に深刻な被害も出たそうです。上で説明した負の遺産というのがこのことです。
鉄道が開通した大正時代は当然川も綺麗でしたから、現在よりもいくらか風情があったはずです。ちなみに当時の欄干は緑色に塗られた細い鉄製の欄干で、大きく印象が違っていました。
この鉄製欄干は、しばらくホテル三翠園にて保存されていましたが、現在では元のはりまや橋の近くの公園に移設展示されています。一般によく知られている朱色に塗られたものは、昭和33年の南国博の時に初登場したものだそうです。県外の観光客の方には、"がっかり"なはりまや橋だけではなく、より価値のある古い方を見ていってくれればと思います。それにしても、「四国無双の大都会」とは、お世辞も度を過ぎるとただの嫌味とはこのことでしょうと、我が県のことながら思います。
藤並神社は現在では存在しません。かつて高知城の県立図書館・文学館のあたりに建っており、歴代土佐藩藩主を祀っていました。"まうでる"とは、詣でるの旧仮名使いだと思います。神社は戦災で焼失し、以後ずっと仮宮で祭祀を続けていましたが、1975年に同じく焼失していた山内神社と合併しています。一豊の妻見性院が、鏡栗毛という名馬を購入するために10両の金子を持たせたという「内助の功」という有名な逸話があり、名馬とはこの鏡栗毛を指すのでしょう。。高知城本丸にある懐徳館にも、山内家はじめ、高知城にまつわる様々な資料が展示されており、歴史好きにはオススメです。
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十三番 十四番 高知駅 |
13杖をば曳かん安楽寺
吸江わたれば五台山
馬酔木が茂りつヽじ咲く
山を下れば竹林寺
14龍馬の像の聳えたつ
月の名所の桂浜
五色の石をひろひつヽ
磯の遊びを楽しまん
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13番には杖という単語とお寺が2つも出てくるので、お遍路を意識した歌詞になっているのではないかと思います。安楽寺は札所じゃないじゃないかと思うかもしれませんが、これについては後述します。五台山の竹林寺は31番札所で、牧野植物園の近くにあります。「吸江渡れば」の意味がイマイチよくわかりません。吸江というのは五台山の西側の地名であり、五台山に登るルートの一つがあります。また浦戸湾のうち、孕東と仁井田の間、ちょうど湾がくびれている所から上の部分を、かつては吸江湾と呼んでいました。弘化台がない頃、吸江湾には多数の渡し船が運行していたはずですから、そのことを指すのかもしれません。
お遍路ファンには常識かもしれませんが、安楽寺には面白いエピソードがあります。まず、明治時代に神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈運動が起こり、土佐神社横にあった善楽寺が廃寺になりました。この善楽寺は30番札所でした。このままでは30番札所がなくなり、お遍路さんが困ります。そのため安楽寺を新たに30番札所に指定しました。ところがぎっちょん、昭和5年に善楽寺が再興してしまいました。そして、30番札所の座をめぐるバトルが勃発したのです。高知線の歌が作られた昭和7年頃は善楽寺が復活したてで、まだ安楽寺が札所だという認識が強かったのか、安楽寺が単独で札所だったのかもしれません。
浦戸湾の入り口に位置する桂浜は、年間300ないし400万人の観光客が訪れる、県を代表する観光地になっています。竜馬像が建立されたのは昭和三年。歌のできるわずか4年前でした。たまに室戸岬の中岡慎太郎像と向かい合っているという話を聞きますが、両方共南の太平洋を眺めているので誤りです。五色石とは、仁淀川を流されてきた石が桂浜に打ち上げられたものです。仁淀川は様々な年代の地層を横断しているため、色んな種類の石が大雨のたびに流されてきます。それは大まかに五色にわけられるため、五色石と呼ばれます。残念ながら一つの石に五色の色が混ざっているわけではありません。土産物屋で売っているので、あえて探そうという人も少ないですが、近年ダムによる川の水量の減少や潮流の変化により、発見できる石の量は年々減っているといいますから、一度探してみるのも乙なものかもしれません。
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十五番 土佐一宮駅 |
15八月の稲刈りとりて
志奈禰まつりとなりにけり
数万の人の つどひくる
神威はたかし土佐一宮
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待合室内に掲げられています。高知では、減反政策が行われる以前は二毛作が行われていたことや、台風の来襲を避ける目的から早生の栽培が盛んであり、八月までにだいたい米の収穫を終えます。ちょうどその頃に、土佐一宮こと土佐神社で行われるのが志奈禰(しなね)祭りです。同神社の例祭(最も大切な祭り)であり、仁淀村の秋葉祭、久礼の久礼八幡宮大祭と並び、土佐三大祭の一つに数えられています。期日は毎年8月24,25日と決まっており、初日は無病息災を願う宵宮祭を、二日目は商売繁盛などを願う神幸祭を行います。輪抜けに始まり志奈禰ねで終わると言うほど、高知ではポピュラーなお祭りです。
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十六番 土佐大津駅 |
16八重の潮路へ舟出せし
国司別離の土佐大津
東天紅と尾長鳥
名は聞こえけり後免駅
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ホーム側の外壁に掲げられています。国司とは地方の政治を執るために中央から派遣されてくる役人のことです。かつて土佐国の国司だった紀貫之が、任期を終えて都に帰る際、大津から船出したと伝わっており、大津小学校には紀貫之舟出の地という石碑が立っています。大昔の浦戸湾は今よりもずっと広く、大津あたりまで海岸が迫っていました。高知市内の地名に"島"がつくところは、昔本当に島だったと聞いたことはないでしょうか? ですから川を遡ってくるわけでもなく、大津から舟を出すことが出来たのです。東天紅と尾長鳥はどちらも鶏の品種です。東天紅は非常に長い時間鳴き続けることで知られています。尾長鶏は読んで字のごとく、極端に長い尾羽が生える特徴があります。記録では10mを超える長さのものもいたそうです。
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十七番 後免駅 |
17二十九番 国分寺
たゆることなく お遍路の
続く景色も 懐かしく
春のおとづれ 知らるなり
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後免駅のものも見つけられませんでした。くろ鉄乗り入れに伴い駅舎が改修されているので、どさくさに紛れて何処かへ行ってしまったのでしょうか? 駅員さんに尋ねてみたものの、応対したのが若いパートのネエちゃんだったため、はっきりしない様子でした。さて、お遍路歩きに決まった時期や日取りはないそうですが、3月21日の弘法大師の命日に始めるのが一般的だそうです。そのため4月に入ると高知では白装束の旅人を見る機会が増えます。遍路は春の季語にもなっています。
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十八番 後免駅 |
18紀貫之の屋敷跡
懐にせし 土佐日記
紐解いてみる芝の上
遊子に桜 散りかかる
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紀貫之は国司館に住んでいました。国司館というのは歴代国司が住んだ、言ってみれば公務員宿舎のようなものです。決して紀貫之の私邸ではないのですが、紀貫之が有名過ぎるためか、もっぱら紀貫之の屋敷跡として知られています。屋敷跡には
高浜虚子が詠んだ「土佐日記懐にあり散る桜」という句の石碑も立っています。高浜虚子は鎌倉市在住でしたが、昭和6年に高知を旅行し、この場所を訪れています。その時、屋敷跡に植わっている桜の木が満開だったそうです。遊子という単語には、家を離れて他郷にいる人という意味や、単に旅人という意味があります。遠い土佐の地に赴任してきた紀貫之と、旅人高浜虚子を絡めた、非常にセンスの良い歌詞だと思いました。この界隈、国分寺や紀貫之邸跡、土佐国府跡など史跡が密集しているので、歴史好きにはおすすめできるスポットです。
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十九番 後免駅? |
19右に分かれて 高鉄に
乗り換え行けば 手結の浜
海水浴や住吉の
磯湯にいるも 面白し
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高鉄というのは後の安芸線のことです。土佐電鉄の一路線として知られていますが、元々は高知鉄道という独立した会社の路線でした。19番と20番は高知鉄道沿線のことが歌われています。これはどこに掲げられていたのでしょう。後免駅でしょうか。それとも高知鉄道の駅でしょうか?妙なことを口走りました。安芸線は昭和49年に廃止されたのですから、昭和58年に作られたと思われるプレートが安芸線の方にある筈がないですね。実際19番も後免駅にあったと掲示板で情報を頂きました。そうすると、20番までの5つが全部後免駅にあったのでしょうか。かなり大きくなると思いますが、どんな感じだったのでしょう。
手結と住吉はどちらも当時の県民のポピュラーな行楽先でした。手結海岸は砂浜なので主に海水浴に、住吉海岸は岩場が多く、海釣りや貝や魚を獲ったりするのに適しています。かつては手結駅止まりの海水浴臨も運行されていました。磯湯とは何でしょうか。当時は海沿いに温泉宿でもあったのでしょうか? 安芸線が廃止され、くろ鉄もトンネルで抜けてしまうため、今の手結や住吉には最寄り駅がありません。人々のライフスタイルや趣味嗜好も変化しており、当時のような賑わいは見られません。
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二十番 後免駅? |
20安芸より下りて 室戸岬
潮けぶりたつ 烏帽子岩
若き大師が 悟りたる
遺跡に榕樹 茂るなり
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"むろとみさき"では語呂が悪いので、室戸岬は"むろとざき"と歌うのがこの場合正しいでしょう。烏帽子岩は岬から北東に一キロほど行ったところにある岩で、その名の通り烏帽子のような形をしています。この室戸には青年時代の空海(弘法大師)が居住し、悟りを開いたとされる洞窟が残っています。榕樹はアコウの木のことであり、市の天然記念物になっています。
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二一番 土佐山田駅 |
21再びかへる 後免駅
土佐山田駅下り立ちて
春はさくらの 八王子
夏なほ寒き 龍河洞
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寄り道から帰り、土佐山田駅に入ります。土佐山田駅にも、額はありませんでした。ちょうど駅員さんが在駐しており、話を聞いてみると、雨に濡れずに掲示できる場所がなくなったため、倉庫に片付けたそうです。土佐山田駅は21番から23番までの歌詞が書かれていましたから、確かにかなり場所を取っていたんだろうと思います。
山田の八王子は駅の北側、かつて専用線が伸びていた大きの工場のすぐ東にあります。境内にはソメイヨシノの美しい並木があります。また、隣の公園にもシダレザクラが咲いており、桜の名所として親しまれています。龍河洞は説明不要でしょう。県民なら一度は訪れておきたいところです。
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二二番 土佐山田駅 |
22これより鉄路のぼりにて
山を出でては 山に入る
くヾるトンネル 二十三
あえぎ喘ぎて 上りゆく
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22番は山が険しいということを、一番丸々使った豪華な(?)仕様になっています。繁藤駅(当時新改駅はない)までの間に本当にトンネルが23本あるのか数えてみたら、ちゃんと23ありました(←そりゃ当たり前だ)。土佐山田駅から繁藤までは13.7キロほどですが、標高差は300mもあり、平均して21‰の勾配が延々と続く計算になります。ノロノロ運転に連続するトンネル。SL時代は防塵マスクを装備し、煙と闘いながらの過酷な乗務でした。作詞者が鉄道員だったからこその内容でしょう。
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二三番 土佐山田駅 |
23いつしか汽車は 峰の上
雲の晴間を 見下せば
香長の平野 青々と
太平洋に つヾくなり
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高知平野のうち、東の方の南国市や野市、土佐山田のあたりを香長平野といいます。土佐山田を出るとすぐに山間に入ってしまうようなイメージがありますが、案外そうではなく、しばらくトンネルの合間に平野部を見下ろすことができます。列車の速度の遅かったこの当時、ゆっくり眺めを楽しむことができるたのかもしれません(機関車の煙には閉口したでしょうけど)。
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二十四番 繁藤駅 |
24マンガン礦や木材に
天坪村の 名もたかく
蕨狩ゆく 角茂谷
穴内川の 清らかに
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標高347m地点に位置する繁藤駅は、JR四国の標高最高地点駅でもあります。今の様子からは想像つきませんが、かつては黒滝地区にあるマンガン鉱山や、その奥地に至る専用軌道が伸びており、鉱石や材木を運んできたトロッコで賑わっていました。昭和7年当時、繁藤駅は天坪駅と呼ばれており、周辺は天坪村という自治体に属していました。昭和の大合併の時に、大豊町になりましたが、後に駅周辺地域が土佐山田町に分割されています。
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二四番 角茂谷駅 |
同上
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角茂谷駅にも何故か24番の歌詞が掲出されています。ただ、こちらには繁藤駅にあった天坪駅のくだりがありません。
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二五番 大杉駅 |
25河鹿の声を耳にして
仰げば高き 加持ヶ森
夏はキャンプに 冬スキー
リュックサックの続きゆく
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河鹿とはカジカガエルのことです。鹿のような綺麗な鳴き声を出すため、このような名前で呼ばれています。北海道を除くほぼ全国に生息する、日本の夏の代名詞的存在です。加持ヶ森とあるのは現在の梶ヶ森のことです。今でもキャンプ場はありますが、山頂まで続く車道ができているため、昔のようにリュックサックの続く風景はなくなりました。大豊町の柚ノ木というところには、高知県初のスキー場があったそうですが、開設は昭和10年代らしく、7年制定の高知線とは時代が合いません。滑走できそうなゆるい斜面を見つけて風を切っていたのでしょうか。昔の高知にそれほどスキー文化が根付いていたとは驚きです。
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二六番 大杉駅 |
26山が集まり山を成し
石楠花が咲き 山吹も
いざや下りて探りみん
日本一の大杉を
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高知線の歌も26番の大杉駅で終わりになります。昭和7年に制定された歌なので、その頃に存在していない駅や名所は登場しないわけです。厳密に言えば、歌が制定されたのが昭和7年の7月なので、12月に開業する大杉駅はまだ存在していないのですが、そこは開業を見越してのことでしょう。高知線は、歌が制定された二年後に豊永駅まで延伸し、その次の年には徳島県側から伸びてきたレールが豊永駅に繋がり、土讃線という一つの路線になります。旧高知線区間で歌に出られなかったのは土佐穴内、大田口、豊永の3つです。あるいはそれらの駅についても、人知れず作詞されているのかもしれませんが、自分は巡りあえていません。25番と26番は大杉駅にあったんだと思いますが、発見できませんでした。2003年の不審火で焼失してしまったのでしょうか。
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須崎日下間といえば高知線で最初に開業した区間、すなわち高知県初の国鉄(省線)だったわけです。その開業日の沿線はどこもお祭り騒ぎの狂喜乱舞でした。佐川町史によれば、この旧バージョンも開通を喜び歌った中の一つだったようです。ところで"須崎、日下間開通"はタイトルでしょうか? それはまたまた随分直球なタイトルです(笑
各歌詞の解説です。1〜5番が須崎吾桑間に当たります。昭和7年版でも解説したように、大間多ノ郷の両駅は開業時ありません。当然ながらスタートは須崎駅です。昭和7年版にもあった錦浦(ここでは多分にしきうらと読む)がこの旧verでも歌われています。やはり須崎の誇りのようです。2番も同様に錦浦を歌っています。3番の古城山は、かつて須崎城が築かれていた名前もそのままに城山のことでしょう。須崎駅から北西に見える山が城山ですから、ほとんど進んでいません。トロい。薬師堂については、沿線に薬師堂や薬師寺などはないようです。この付近の沿線で寺といえば、城山の北に観音寺がありますが、薬師堂=観音寺なんでしょうか??? そのあたりは入り江の一番奥で、現代なら間もなく大間駅というところなんですが、当時はないのでまだ旅も始まったばかりと行ったところ。賀茂神社は少し遠く、大間駅から北西に1.1キロほどのところにある大きな神社です。地元高校のマラソンのスタート地点だったり。そしてその大間駅周辺は、戦前は人家がほとんどなく、国道沿いでさえ田畑が広がっており、沃野と表現するのは適切でした。駒は子馬の別表現です。農耕用の馬でしょうか。桐間鉱泉は全くの謎です。桐間は大間駅と多ノ郷駅の間の海側、近年バイパスや高速道路ができて急速に発展した地域です。そのあたりに名水でもあったのでしょうか。
(追記:その昔、この付近に確かに鉱泉(温泉)があったようです。皮膚病に効能があるとされ、温浴施設もあったそうですが、昭和南海地震の津波で辺り一帯が壊滅し、湧き水の場所もわからなくなっていたそうです。ところが平成中頃、区画整理の事業中に作業員が硫黄臭のする水が湧き出ているの気づきました。これが行方不明になっていた桐間鉱泉と見られ、おおよそ60年ぶりに発見される形となりました。現在は温浴施設はありませんが、ガソリンスタンドならぬ温泉スタンドが設置され、容器を持ってくれば無料で持ち帰れるようになっているようです。ただ、最近ではポンプが動いてなくて無理らしいという情報も。場所はマルナカ須崎店の近くです。)
土崎神田押岡はいずれも沿線にある地名ですが、押岡地区を線路は通っていません。住友大阪セメントの工場があるあたりが押岡地区です。これはあくまで桜川が流れているところの地名のようです。桜川を渡ると吾桑駅は目の前です。
6〜9番が吾桑斗賀野間に当たります。新ver同様、蟠蛇ヶ森が歌われています。標高が尺貫法で表されています。当時はメートル法への過渡期で、尺貫法も慣習的に用いられていました。一尺が30.3センチなので、770mの蟠蛇ヶ森は大雑把に2500尺となります。坂を上り詰めていくと峠を越える斗賀野トンネル(1960m)に入ります。長いです。1町が約109メートルなので、ざっと18町になります。地質的に恵まれているとは言えず、完成まで5年半以上の月日を必要としました。高知線一期線の工期もそれぐらいなので、このトンネルの完成が高知線の開通を意味しているようです。なお昭和4年に猪ノ鼻トンネル(3850m)が開通したので四国一だったのは短期間でした。トンネルの出口付近が峠になっており、越えると斗賀野平野に入ります。この付近では大きな川もなく、まとまった土地があるので広々としています。その多くは耕地となっています。丸山公園は地図に載っていませんが、国道494号線と県道308号線の交差点、ヤマザキショップ斗賀野店の近くにあるようです。土佐藩の家臣だった深尾氏が鷹狩をした遊鷹地だったそうです。またその付近には、明治時代から操業している瓦会社があるそうです。
10〜13番は佐川西佐川間です。佐川町内にいくつか川は流れていますが、春日川は佐川の中心部を流れており、この川沿いに佐川は発展しています。佐川駅のすぐ裏手を流れる川です。藩政期にこの佐川の領主だったのが深尾氏でした。深尾家は幕末まで代々佐川の領主を務めました。佐川町内にはこの深尾氏関連の史跡が数多く残ります。青源寺は佐川駅の南西、牧野公園の下にある寺です。深尾家の菩提寺(先祖代々の墓のある寺)になっており深尾家の代々の墓があります。昭和10年に文部省指定名勝、昭和31年に県指定文化財となりました。佐川町出身の植物学者、牧野富太郎が若い頃に頻繁に出入りしていたことでも知られています。牧野氏は40歳のときに故郷の佐川に桜の苗木を贈りました。それは青源寺などに植えられました。乗台寺は佐川駅の北西、JA佐川支所の裏手にある寺です。こちらは深尾家の祈願寺となっており、二代目当主重忠の妻が病気のとき、平癒を祈願したところ快方に向かったため、その御礼として中庭に庭園が築かれたと伝わります。その庭園は現代でも残っています。なお青源寺の方にも庭園があり、この2つの寺は竹林寺と並び土佐三大名園に数えられています。柳瀬川も佐川町内を流れる川の一つです。春日川と比べるとやや大きく、少し郊外の方を流れています。ちなみに西佐川駅の北の方で両者は合流しています。佐川駅を出ると線路は春日川を渡ります。春日川は蛇行しているので短い間に二回渡ります。すると間もなく西佐川駅です。御嶽(みたけorおみたき)山は横倉山の別称です。越知町の山ですが、山の間から上部が見えます。新verの方でも解説した通り、安徳天皇の陵墓参考地です。
13〜14番は西佐川土佐加茂間です。佐川高女とは今の佐川高校のことです。現在は男女共学校ですが、当初はその名の通り女学校でした。仮校舎を経て大正12年に現在地に移転しています。昔は高い建物が少なかったので西佐川付近からも見えていたのかもしれません。今でも国道の跨線橋付近からなら校舎が見えます。西佐川駅を出ると線路は大きく右に曲がり、山間へ入ります。そのカーブのあたりの人家がある辺りを下山地区といいます。そこから線路は下り坂になり、2.5キロほど行くと土佐加茂駅です。
14〜15番が日下駅です。杞柳は上で説明したとおりです。開通から半年間は日下駅が終点でした。当時のダイヤは一番列車が6時の須崎発。終列車が20時10分の日下発でした。一日5往復で3時間に一本、所要時間はおよそ1時間10分と、非常にのんびりしたものでしたが、当時の人々にとっては夢の乗り物でした。現在では途中駅が増えたにもかかわらず、所要時間は40分程度と飛躍的に向上しています。
ところで、なぜ佐川町史にこれが載っていたのでしょう。鉄道関連書ではなく町史ですから、歌の歌詞までは必要なさそうに感じましたが。続く部分に答えと関連するかもしれない興味深い事が書かれていました。この旧verの作詞者である武田氏は3代目の佐川駅長だったようです。任期はわかりませんが、5代目駅長が昭和3年に就任したようなので、仮に一年ごとに交代したとすると、大正末期か昭和の最初期に駅長を努めたようです。この初期verについては、いつ作詞されたかは明らかにされていません。タイトル通り開通当時かもしれませんし、氏が駅長就任後に当時を思い出しながら作ったのかもしれません。
更に興味深いことに、昭和7年verの作詞者である中山氏は11代目の佐川駅長だったようです。中山氏の駅長就任は昭和20年のことで、新verの作詞をしたのは車掌時代のことだったようです。作ってかなり後のことなので、二人がともに佐川駅長を努めたのは偶然かもしれませんが、面白い一致です。