柳瀬沈下橋跡
柳瀬沈下橋は、いの町柳瀬と日高村長畑を結ぶ、高知県道300号線柳瀬越知線の橋だった。昭和63年に400mほど上流に永久橋の柳瀬橋が架けられ廃止された。 かつて仁淀川には、国道33号線の伊野大橋と越知町の越知橋の間に橋はなく、伊野町(旧三瀬村)と日高村(旧能津村)の間には、県営の渡し船があるのみであり、かねてよりこの間への架橋は宿願となっていた。 昭和29年に日高村が発足して以降、その機運は非常に高いものとなった。そこで旧三瀬村や伊野町と協議を重ね、更に県や国へも働きかけた結果、架橋が決定され、昭和36年にこれが実現した。 日高村史によれば、架橋に掛かった費用は800万円(当時)で、県と国庫から計320万円。伊野と日高村で150万円を負担し、更に山林の売却金が130万円。200万円を借入金で賄った。正確な延長は不明だが、日高村史には能津側94m、柳瀬側96mとある。ただ、地理院地図の計測機能で測ると、150m程しかないので、村史に記載の延長は取付道路を含めた距離のようである。橋は昭和36年3月に開通したが、柳瀬側が簡素な取り付け道路で、大雨の度に流されて交通が遮断されていたので、39年にさらに450万円かけてコンクリートの舗装道路を整備し、これ以降ほぼ通年通行できるようになった。正確な撤去時期は不明だが、1992年の空中写真では既に撤去されている。 |
道の駅「水辺の駅あいの里」の東の交差点が沈下橋への入口。以前は点滅信号
が設置されていたが、いつの間にか撤去されていた。
県道(沈下橋)側から見た交差点。国道と県道の交差点にしてはしょぼい交差点だし、右は生け垣で見通しが悪い。昔は交通量が少なかったから問題なかったんだろう。最近事故でもあったのか、以前見たときより「とまれ」の標識が一枚増えていた。この突き当りには小学校(廃校)があって、さらに左には小学校のグラウンドとプールがあった。信号は児童が行き来するために有ったようだ。
ゆるい坂を下ると仁淀川が見えてくる。道は右へカーブする。
カーブの途中にはカーブミラーが残っている。県道時代の遺品だろう。下には遊泳注意の看板。市内局番が93だった頃の伊野署の番号が記載されているので、これも古そう。ちなみにこの左はふれあい広場と呼ばれ、昔はゲートボール場や柳瀬キャンプ場などの施設があった。
更に進んでいくと、「その他の危険(215)」と沈下橋通行告知板が残っている。沈下橋が多い高知県では、この2つは大抵セットで設置されている。間違いなく現役時代の忘れ物だ。
ビックリマークを過ぎると道は左へカーブし、その先に橋が掛かっていた。河原へのアクセスのためか、直前までバリケードなどは一切ない。
柳瀬側の橋台。河原からの高さがほとんど無い。水面からの高さもあまりない。これでは多少の増水でもすぐに浸水していただろう。取り付け道が流されていたというのも納得だ。
現道の柳瀬橋から沈下橋跡を見る。
日高側へ移動。旧道と現道の分岐地点を見る。元々はもっと先が分岐だったけど、大きな橋ができて分岐地点ごと旧道落ちした。
途中に橋が一本架かっている。これも旧橋となった。古くから旧道だったみたいな雰囲気だが、2000年代まで現役だった。たぶんバイパスができることが早い目に決まっていて、ずっとそのままだったんだろう。
橋の銘板。
旧道は分岐して橋の下を潜っていく。なお新しい橋は宮の谷橋ではなく
能津大橋
という名前になった。
そして今の橋が出来てから能津大橋ができるまで、直進していくほうが県道だった。
旧道は坂を下っていく。
伊野側と違って行き止まりとなっている。河原までは繋がっていない。まあこっちには河原らしい河原がなく、段差になっているので、安全面的にもこの方がベター。
橋台はこの藪の中にあるのだが、ヤブで見えなくなっている。
昔はこんな感じで竹の中に埋もれているのが見えていた。
伊野側を見る。左上は道の駅。