石原満俺軌道



 
 マンガン鉱や木材に天坪村の名も高く(略)

 とは高知線の歌第24番の歌いだしである。天坪村という地名が聞き慣れないかもしれないが、昭和30年まで存在した村である。土佐山田町の繁藤、樫谷、飼古谷と大豊町の馬瀬、戸手野などは天坪村だった。役場は角茂谷駅の近くにあった。地名だけは今も残っている。繁藤駅も元々は天坪駅と呼ばれていたのである。
 歌詞にもある通り、かつてマンガン鉱山が近くにあった。満俺はマンガンの当て字である。当初、掘り出した鉱石は畜力で輸送していたが、昭和7年、輸送効率をあげるため穴内川沿いに軌道を敷設。蒸気機関車やガソリン機関車による輸送に切り替えた。一時期国内のマンガンの実に6割近くを産出していたが、1952年、ダム建設により鉱山の大部分が水没してしまう。軌道の一部は木材輸送のために、その後も継続して使用されたが、それらもまもなく撤去される。現在では繁藤駅と穴内川ダム堰堤までの間、および基点の鉱石積み込み場周辺に路盤がのこっている。
 

 繁藤駅。四国でもっとも高い、標高約350mにある駅である。交換設備があり、行き違いや追い越しなどあるが、基本的に静かな駅である。その繁藤駅がかつて鉱山で賑わった時期があった。
 駅の西の隅に不自然に広い空き地がある。ここに軌道が敷かれていたのである。
 正確に言うと高架になっていた。これは下に貨車を待機させておき、鉱車を傾けることで直接鉱石を積み替えていたためである。
 繁藤駅の構内を出ると高架につながっていた築堤が残る。ちょうど杉の大木が生えており、廃止後経過した時間がわかる。
 築堤の端には橋台の一部と思われる石積みが残る。
 築堤の上は植生により歩くのが少し難しくなっている。
 築堤は土讃線に沿って築かれている。
 穴内川手前には穴内川を渡っていた橋の橋台が残る。
 川には橋脚の土台部分もある。
 対岸にも何か痕跡があると思うがこちらからは見えない。
 対岸へ移動。斜面にコンクリートの塊を発見。おそらくこれが橋台だろう。と思ったが繁藤側が石積みで黒滝側がコンクリートというのが腑に落ちない。軌道に並んでつり橋が架かっていたのだが、そちらの橋台と間違えたかも。近々再訪したい。
 コンクリート橋台が軌道のものだとすれば黄色の矢印の通り軌道が敷かれていたことになる。
 小屋は路盤の上に立っている。
 そして道の下を駆け抜ける。
 林が終わるところは土讃線の掘割であり、軌道はここでオーバークロスしていた。
 土讃線の両脇にはコンクリート橋台が対で残っている。
 土讃線を越えた軌道は画面中心を横切っていたが、地形が変わってしまっており痕跡はない。右に少し見えているのは土讃線。
 中央に小さく電柱が2本写っているが、その下に橋台がある。右の小屋は路盤に建っていると思われる。
 写っている小屋はひとつ前の写真の小屋。路盤は道路に転用された。
 振り返って。ここから高知道のトンネルが見える所までの間に遺構は残っていないと思われる。