安芸線跡 其の二

安芸線 年金事務所の東側に来た。道路は線路の跡ではない。この付近に安芸線の車両工場があった。本線は右側、住居が建っている位置を通っていた。

安芸線
 途中民家に阻まれる。民家を迂回して裏側に回ると水路があり、簡素な橋台が残されている。

安芸線
 その手前の路盤は僅かながら畑になって残っていた。左手の緑色の屋根の家と、その後ろの倉庫のような建物は現役時代から建っているような雰囲気だ。

安芸線
 同じ場所から安芸方を見る。安芸線の路盤が宙に浮いた土地となって残っている。その先には後免町を出たくろ鉄の高架が合流してゆく様子が見える。


安芸線
 すぐそばには何かを固定していたような土台もある。踏み切りがあるような場所ではないため信号機か機械箱の跡だろうと思う。
 
 後免町の場内信号か。

安芸線 途中駐車場などに使われつつもまっすぐ路盤は続いている。

安芸線安芸線 農業地帯なので、川や用水路とよく交わる。至る所橋台が残っている。

安芸線 永田駅跡と思われる付近。永田なんて駅知らないぞと思われる方も多いかもしれない。なぜならこの駅は路線廃止前にすでに廃止されていた駅である。安芸線には路線廃止前に廃止された駅が3つある。資料にれば、いずれの駅も昭和3年9月1日に開業し、昭和19年に廃止されている。安芸線では、昭和3年に中間駅が大幅に増えている。それはたぶん、ガソリンカーの導入があったためだろうと思う。蒸気機関車よりは加速性能が勝るため、その分駅を増やしたのだ。もっともストップアンドゴーを頻繁に繰り返す分、燃費の面ではよろしくないわけで、戦争で燃料事情が悪化すると休廃止させられる駅が日本全国で相次いだ。無論、安芸線の途中駅も昭和19年頃にことごとく旧廃止させられている。ただ、それらの駅の多くが戦後復活したのに、永田を含む3つは復活しなかったのである。場所も謎で、旧版の地形図には何故か、同時期に開業した西野市駅共々載っていない。土電の社史や記念誌にも情報がほとんどなく、後免町で出会った土電のOBの方や、道中捕まえた年配の女性の方に尋ねても場所は判明しなかった。ただし、何故かいずれの駅もキロ程ははっきりしている。永田駅は後免町から1.3キロの場所にあったとある。地図に定規を当てて簡単に計算すると、そこは永田バス停の北あたりとでた。目に付く遺構はないが、若干路盤が広くなっているような気がする。ホームがあった名残なのかもしれない。

安芸線
 立田駅に到着。
阿佐線の駅も安芸線時代とほぼ同じ場所にあるはずである。
 
 立田駅は開業当時からの駅であったが、昭和19年に休止された。昭和27年に復活した。

安芸線 立田をすぎると右にカーブし、ご覧のようにまたしばらく直線が続く。

安芸線 途中で枕木の残る橋桁を見つけた。何か意図があって残しているのであろうか?

安芸線 しばらく行くと、路盤が膨らんだ場所がある。日章駅跡である。日章駅の設置は昭和19年のこと。これは日章飛行場建設のための資材輸送を当て込んで作ったためで、両隣の駅(立田と物部川)を統合する形で生まれた。その頃多くの駅が休止されていたのとは対照的である。安芸線では珍しい島式ホームを採用しており、有効長が長い割に幅は狭く感じた。

安芸線 駅前広場は駐車場になっている。この広場は安芸線電化の際に起工式が執り行われた広場で、アクセルソン中佐も参加し鋤入れを行っている。日本式の儀式は欧米人の目にどう映ったのだろう。くろ鉄に日章駅はない。

安芸線 日章駅跡の南東に売りに出されている土地がある。OBの方の話によれば、高知空港への石油輸送のために、日章駅までタンク車が乗り入れていたそうだ。この土地は石油タンクが設置されていた跡らしく、出光興産の所有地である旨が記されている。石油輸送自体は路線廃止前に廃止されており、晩年の日章駅は北側の一線だけ使用した一面一線になっていた。

安芸線 まだ日章駅が見える位置。古い空中写真を見ると、ここは桟橋になっていたようだ。湿地だったのだろうか。

安芸線 安芸方に橋台らしき構造物があった。

安芸線 路線廃止前に廃駅になっていた3駅のうち、2つ目がこの付近にあった。駅名は物部川といった。資料では日章から三百メートル、西野市からは一キロの位置にあったらしく、それがこの付近である。県道と路盤の間には盲腸になった道路があり、駅前道路だったのではないかと思う。


安芸線 やがて県道364と交わる。振り返って撮っている。
 
 県道364はかつての国道55号線。ここの踏切は日章踏切といった。

安芸線 そして、前々から目をつけていたこいつと再会する。向こう側は営業中の喫茶店なので渡らなかったが、喫茶店の店主らしき人に話を聞くことができた。39年ここで営業しているそうで、昔の空中写真に店舗が写っている。店内から窓の外を見ると、すぐそばを電車が走っていたそうで、それでも音はあまり気にならず、もっぱら前を走る自動車のほうが五月蝿かったとのことである。この橋桁も以前から撤去するという話があったそうだが、ずっとこのままになっているらしい。いつか撤去されてしまうかもしれない。この先には物部川があり、くろ鉄は安芸線跡から外れている。

安芸線 物部川の堤防から後免側を撮影。当時は築堤を築いていたはずであるが、影も形もない。左の工場はひまわり牛乳南国工場。

安芸線 安芸側。かつて高知鉄道が安芸線起工式を行ったのもこの物部川の河原だった。

安芸線 物部川橋梁跡。水たまりは橋脚を撤去した跡。


安芸線 県道から撮影。物部川橋梁の橋脚の跡である。これより内側にも橋脚の跡があるが、これは旧道の跡である。写っているこげ茶の橋は阿佐線のもので、安芸線とは離れた位置にある。

安芸線 左岸にのみ橋台が残っている。なお、旧道の橋台も残っているため、遠目に見ると旧道の橋台を安芸線のものと勘違いしやすいので気をつけてほしい。

安芸線 左岸から。橋台の上は鉄工所の敷地になっているため、旧道上から撮影している。

安芸線 西野市駅跡。現在は建設会社の資材置き場になっている。昭和3年9月に設置された後付け駅である。戦中に廃止させられたが、昭和26年に復活している。くろ鉄の駅はない。

安芸線 西野市駅には隣接して野市変電所が置かれていたが、現在は建設会社の社屋が建っている。安芸線の電化工事は、昭和24年4月にまず後免手結間が、3ヶ月遅れて残る手結安芸間が完成した。手結安芸間は赤野の変電所から送電されている。面白いことに、安芸線が昭和49年4月に廃止された後も、この野市変電所は翌年1月まで稼働していたようだ。これはどういうことかというと、野市変電所が軌道線の明見橋電停付近まで送電していた事によるようだ。野市変電所の代わりに新しく後免町に変電所を作ったわけだが、なぜ安芸線の廃止と変電所の切り替えを合わせなかったのだろう。単に工事が間に合わなかったか? 撤去された野市変電所の設備は後免町変電所に移設された。ただし資料が古いので現在のことはわからない。

安芸線 野市駅跡。のいち駅とほぼ同じ場所にあった。よく見ると、水路や道路が駅の路盤を避けて、南側に若干避けている。野市町の中心駅であり、言うまでもなく開業当初から設置されている駅である。ここで折り返す列車もあった。

安芸線 近くの水路にはコンクリートの色が違う部分があった。多分橋台だろう。

安芸線 のいち駅。

安芸線 旧駅前通り。今はホーム下をくぐる幹線道路があるが、現役当時はこの道と旧国道しかなかった。この道はいまも県道に指定されている。安芸線の名残だ。ただ、路線名である野市停車場線で検索すると、車も通れないような狭い路地を県道として紹介しているサイトがある。本当なら面白い話だ。もともとはそちらが正規の出入り口で、こちらの道は後付けだということだろうか。更に言うと、くろ鉄開通に合わせて県道を指定しなおしたのかもしれない。なんにせよ、安芸線のユーザーの多くがこの道を使っていたのは確かだろう。


安芸線 ここでも橋台が残っている。F氏によると数年前まで桁が残っていたが、住民の要望により落とされたそうだ。子供が勝手に渡るからであろうか?
 
 野市駅東方の烏川に架かっていた橋の跡である。JTBの"歩く"には架かった状態の写真が載っている。いつの撮影か不明だが、左のフェンスや右の家は変わっていない。

安芸線 2005年の調査ではここから香我美駅付近までをすっ飛ばしていたため、今回が初調査となる。路線廃止前に廃駅になっていた3駅のうち、3つ目がこの付近にあった。駅名は遠山といい、野市駅からはちょうど一キロの位置にあった。この直線の中ほど辺りだと思うが、やはり遺構は残っていない。この付近、くろ鉄は地上に降りてきている。架線柱を立てれば今にも600型が走ってきそうだ。

安芸線 遠山駅付近。横切っているのは国道55号線野市跨線橋。安芸線現役中に造られた道路なので国道の方が高架になっている。くろ鉄は元の路盤を再利用して地上へ降りてくるが、それまで国道は無駄なアップダウンを強いられる形になっていた。ちなみに国鉄時代の計画では、この跨線橋をも高架で越えてしまう予定だったらしく、巨大な高架橋が一部が完成していたが、工事凍結により長期間放置された挙句解体されるという憂き目に遭っている。

安芸線 少し進んで、日吉神社の下辺り。

安芸線 踏切跡だろうか、舗装が特徴的な痛み方をしている。踏切といえば、立田駅東側の踏切にもかなり長い期間レールが残されていたという。同じような所が他に残っていないとは言い切れない。舗装を剥がせば現役時代のレールが出てくるのだろうか。後免町のレールがなくなった今、貴重な遺構になる可能性がある。

安芸線 警報機を取り付けていた基礎だろうか。

安芸線 古川駅跡。よしかわ駅よりも後免寄りにあった。現役当時、高架下をくぐる道路はなく、そこにホームがあったようだ。やはり戦中に廃止されたが、昭和25年に復活している。古川と吉川は字が似ているが誤植ではない。吉川村発足以前、この付近に古川村というのが存在していたのである。ちなみに吉原村というのもあり、両者が合併してお互いの字をひとつずつ取った結果できたのが吉川村だ。

安芸線 よしかわ駅は南東へすぐの位置にある。

安芸線 県道14号線沿い、フジ物産の横に橋台が残っていた。

安芸線 近付くとわかるが、歩道が上部に覆いかぶさっており、上からは見えないようになっている。なぜか同じような構造物が二つ並んでいる。

安芸線 向かって左側、上にボルトが残っており、これが本当の橋台だろう。

安芸線 向かって右側。ボルトがない。なんの為の物だろうか。

安芸線 橋台上部の歩道から。二つの建物に挟まれた位置にあり、更にくろ鉄の橋脚が邪魔をしており脇道へ入らないと見えない場所にある。自分も二回目の調査で、何の気なしに入った道路から偶然発見したという状況だった。

安芸線 同じ場所から。県道を越えるとすぐに香宗川の鉄橋だった。くろ鉄は安芸線からは外れている。

安芸線 香宗川橋梁跡。車道化により遺構はない。

安芸線 手元に地図があれば、あかおか駅周辺を開いて欲しい。県道14号から東へ、くろ鉄の下でS字を描きながらあかおか駅へ抜ける道がある。かなり特徴的で一見無駄に思えるラインだが、古い空中写真と見比べるに、どうやらこれが安芸線の跡らしい。

安芸線 どういう理由かは知らないが、安芸線はこの区間を蛇行しながら下っていた。くろ鉄はS時の中心を通り抜けている。そのため$の記号を思い切り引き伸ばしたような道路ができたようだ。

安芸線 右カーブ。くろ鉄は右手に移った。

安芸線 旧赤岡駅跡。あかおか駅とそのまま同じ場所だ。開業当初からある駅で、対向式二面二線の構造を持つ有人駅だった。

安芸線 あかおか駅。

安芸線 あかおか駅を出ると、すぐ国道55号線が近付いて来て並走する。

安芸線 岸本駅跡。この駅も開通当初からあった駅だ。赤岡駅からの距離はおよそ八百メートルほど。中間駅が増える以前の既存駅の中では最も駅間距離が短かかった。当初は駅員も配置されていたが、戦後の比較的早いうちに無人駅になっていた。跡地は廃止後かなり早い段階で取り壊され、香宗川放水路が掘られた。廃止後できた人工河川なので、橋台は元からない。

安芸線 対岸。駅の跡の僅かばかりの空き地が残っていた。

 
 放水路建設中、この空き地に国道の迂回路が作られたらしい。

安芸線 駅跡に目立つ遺構はないものの、別のものに名残が残っている。それは駅前から伸びる道路である。県道227号線、路線名は山北岸本停車場線という。そう、岸本駅が終点になっていたのである。くろ鉄には岸本駅はなく、廃止から今日に至るまで、いわゆる「停車場のない停車場線」になっている。野市駅や赤岡駅にもそれぞれ野市停車場線、赤岡停車場線があったが、平仮名ながらもそれらの駅が復活したため、現在ではここぐらいである。

安芸線 岸本月見山間。

安芸線 香我美駅。安芸線に香我美駅はなく、くろ鉄オリジナルの駅である。





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