安芸線跡 其の三一寿司会館の手前にも橋台が残る。月見山駅跡。月見山の下、峯本神社のそばにあったようだ。くろ鉄に月見山駅はない。多分、安芸線時代と同じように駅を作ると近すぎるのだろう。先の岸本駅とこの月見山駅の中間に、両駅を統合す形で香我美駅が作られている。OBの方に写真を見せていただいたので知ったことだが、ホームは国道と線路に挟まれてあった。 こちらは進入防止の柵である。廃線跡ではお馴染みの古枕木流用のやつである。 またひとつ橋台と出くわす。住民の通り道になっているであろう、板が渡されている。 夜須駅跡。旧夜須駅は現夜須駅から交差点を挟んだ反対側にあったという。 地元の人に場所を尋ねた時、ホームがちょっとだけ残っていると教えてくれた。そこで周囲を探してこれを見つけた。底床ホームの跡なのだろうか? ただ、それにしてはかなり新しく見える。地元の人の勘違いか、記憶違いだろうか。もちろん、本物の可能性だってある。これについては判断を保留とした。 これはくろ鉄の夜須駅。道の駅やすが併設されていて、観光客で賑わっている。 夜須駅から先の路盤は自転車道として整備されている。この自転車道は県が管理している県道であり、ちゃんと501という路線番号と高知安芸自転車道線という路線名をもっている。くろ鉄は安芸線の路盤を外れ、しばらく一人旅だ。 すぐに夜須川橋梁がある。当時の鉄橋をそのまま転用したこの鉄橋は、安芸線内の遺構でかなり高い知名度を持つ。 起点側の橋脚に架線柱の根本が残っているのも変わらない。何故か石が挟まっているのもちょっと前から変わっていないような気がする。 少し行くと、右手に広い駐車場がある。ここは手結駅の跡だ。 1924年に後免手結間が開通してから1930年の全線開通まで、この駅が安芸線の終点だった。途中駅では大きめの規模の駅であり、急行列車が停車していたほか、この駅で折り返す列車もあった。また夏の海水浴シーズンには臨時列車も運転されていたた。 近くの公民館には駅前の文字が。ただし、地図には夜須駅前集会所と表示されている。地図編集者が手結駅を知らなかったのだろうか? あるいは本当に夜須駅前が正解なのだろうか。 手結駅の近くには日本最古の堀込港と言われている手結港がある。江戸時代の建造らしい。開通当時はまだ土讃線は全通しておらず、安芸線の車両は船で運ばれてきてここに水揚げされたという。また、電化の際に海水を帰回路に利用したとあり、片方の電極が手結港に沈められたそうだ。 手結駅跡を過ぎると最初の難所、手結の上り坂が始まる。付近の壁には架線柱の跡と思しき鉄骨の跡がある。 途中跨道橋の上にに橋桁を発見。安芸線の橋桁をそのまま利用しているようだ。 さらにそばで何かの土台を発見する。 手結山の旧国道から手結の街並みを見下ろしてみる。住宅の中に築堤が築かれている。 手結と夜須の町並み。 ゆるい坂を登りきると隧道が現れる。 土電社史を見ると「菊池はのち手結山トンネル完成の際「征天工」なる時を揮ごう、野村に贈った」(88年史より引用)とある。土讃線のそれと比べると縦長に見える気がする。電化のときに掘り下げたのかな? 内部には電線を吊っていたであろう碍子と、待避坑をふさいだような鉄板がある。鉄板はたまに整備のために取り外されることがあるようだ。 隧道を抜けると岩盤むき出しの切り通しとなる。少し行けば二本目の隧道が現れる。 2012年、以前来た時にはなかったはずのトンネル?ができていた。この上には町道が通っているようだが、それは元々手結山第二トンネルの袂に通じていたはずだ。なぜこのような新道が作られたのだろう? 心当たりとしては、国道の手結山第二トンネルの対面通行化だ。地図を見るとわかりやすいと思うが、それまで手結山トンネルは上下線に分離していた。それが2003年に上り線が封鎖され、大断面を持つ第二トンネルに一本化された。それまで町道から国道に出る場合、第二トンネルは下り専用のため、室戸方面から来る車にのみ注意していればよかったが、対面通行になったために、高知方面から来る車にまで注意を向けなくてはならなくなった。見通しの悪いトンネル口でそれは安全上マズイと判断され、東側に新しい跨線橋を作ったのではないだろうか? あくまで想像なので参考までに。 工事現場現る。なにやら斜面をいじっていたが、斜面崩壊でもあったのだろうか。 ところで、左のほうに一段高くなっている部分がある。これはサイクリングロードの迂回路であるが、実はこれかつての海浜学校前駅のホームである。 ホーム跡を使うとは上手いことを考えたなと思ってみたが、アスファルトで舗装するのはやめてほしかった。 2012年の様子。何事もなかったかのようになっている・・・・ ・・・・と言うわけにもいかなかったようだ。一部ではあるが、ホームが撤去されている。この海浜学校前駅は、昭和28年7月に開業した後付け駅である。安芸線では唯一戦後に開設された駅でもある。ちなみに手結安芸間の後付け駅には、他に和食駅と八流駅がある。 こうみるといかに工事現場が近いかわかる。 長らく第一と第二を取り違えていた模様。起点に近い方が第一になるわけだから、こっちが第二隧道で、前のが第一である。現在では、以前来た時の工事の結果だろうか、坑口が随分と窮屈になっている。 なんと距離標を発見。コンクリート製だったのがよかったようだ。ただ塗装は剥げて何が書いてあったか、と言うより字が書いてあったかさえわからない。 切り通しを抜けるとまたホームのようなものを発見。うどん屋と民家の駐車場の一部になっている。 ここにあったのは土佐住吉駅の跡だ。2010年から11年にかけての道路工事により失われたと思われる。路線開通当初からあった駅で、駅員も配置されていたが、戦後早いうちに無人化された。戦中も休止することはなかった。 やがて線路跡は国道に沿って走り出す。このあたりも現役時代の雰囲気がよく残っている。 低い峠のような所を過ぎると、海手の方に旧街道がわかれる。同時にくろ鉄が夜須駅以来の一人旅から帰ってくる。安芸線も同じように海沿いを進んでいた。 安芸線の路盤はくろ鉄の下。自転車道はそれより海手の関係ない場所を走っている。 旧長谷寄駅跡。自分では分からなかったので地元のおじさんを捕まえて聴きだした。言われてみれば、確かに境界杭がそれらしい広さに散らばっている。交換可能駅だったが、晩年は廃止前の減便により片側しか使われていなかった。戦時中に廃止され、昭和25年に復活している。 ホームの跡だろうか? すぐそばの倉庫の裏に気になる構造物を見つけた。 長谷寄西分間。 西分駅が見える辺りから、くろ鉄の高架は安芸線の路盤を外れている。安芸線は若干北に進路を変えて旧街道沿いを走っていたが、くろ鉄はそのまま海沿いを進んでいる。左奥へ続く平場が安芸線の路盤である。 西分駅。安芸線時代も西分という駅はあったが、こことは違う場所にあった。 西分駅前に建つ家は安芸線の築堤を切り崩した跡に建っているようだ。 西分駅の東方は墓地になっている。 擁壁に古い石垣が残っている。少し判断に迷うのが、石垣の上が路盤だったのか、それとも下かである。多分下が路盤だったのではないかと思う。 そのまま東へ進んでいくと、右手に広場がある。旧西分駅の跡である。くろ鉄の西分駅とは案外距離がある。現在では宅地になっていて当時の痕跡は少ない。くろ鉄の高架は琴ヶ浜の砂丘を挟んだ南側を通っている。 裏手に行ってみると、ボルトのついた何らかの基礎が残っていた。 駅の東からホームの跡を見る。 同じ場所から安芸方を見る。そばを和食川が流れている。 ここには当時の様子を紹介するパネルが設置されている。中には最終日の西分駅を収めた写真もあった。ここも最後の方は片側しか使われていなかったことがわかる。 和食川鉄橋跡。右手から離れていたくろ鉄が合流してゆくのが見える。 起点側の橋台は現存する。 和食川橋梁跡。 川には橋脚の基礎部分がいくつか残っている。それらには現役時代の写真が埋め込まれ、モニュメントとして使われている。 安芸方の橋台跡。路盤がくろ鉄線に転用されたため、残っていない。 川を渡ると阿佐線がかなり接近している。ここはほぼ同じ場所を利用しているのだろう。 阿佐線はほとんど高架なため地上に降りてくることは少ない。 もっと先まで行きたかったが、市街部で時間をとられたため和食で引き返した。次は迷った部分と、この先を終わらせたい。 |