安芸線跡 其の4

  よーしパパ五年ぶりに更新しちゃうぞーってなわけで、2012年正月、和食駅に降り立った。写真は現在の和食駅の様子。駅は高架になったが、位置的には同じはずだ。ちなみに戦中に一度廃止され、戦後復活した経緯を持つ。末期は無人化されていた。

  和食駅には工事再開までホームがほぼ完全に残っていたという。ほんの十数年前だから、本当に最近のことだ。先述の通り後づけ駅である。路線開通は昭和5年だが、駅の開業は昭和6年である。そしてやはり戦中に廃止され、後の昭和24年に復活する。

  駅駐車場の東側には古びたコンクリートが残る。底床ホームの跡だったら嬉しいが、さすがに考え過ぎかもしれない。


  和食-赤野間の軌道跡。写真奥が後免。

  路盤の跡に点々と残るはフェンスの跡か何かだろうか。

  錆びてやせ細った犬釘は当時使われていたものだろう。

  少し行くとサイクリングロードが戻ってくる。高架下はゴミとも財産ともつかないようなものが多数置かれていて、不法占拠状態になっている。先をゆくは、これまた五年位ぶりに登場のF氏。

  警告書きはあるのだが、平成14年の定義とは何だろう。

  言っちゃあ悪いが、これじゃスラム街だ。

  赤野駅手前でまた自転車道がわかれる。

 赤野駅が見えてくる。


  赤野駅。先ほどの和食駅と同じく、駅舎がなくて直接ホームに上がるようになっている。

  旧赤野駅も同じ場所にあったようだ。地上には古びたコンクリートの台がある。ホームの跡と見てよいのではないだろうか。

  ホーム上から安芸方面を望む。かつての難所、八流の坂が遠くに見える。

  赤野を出たところで安芸線の路盤からくろ鉄がわかれる。

  ここだけ見ると、何処かの専用線の跡のよう。

  すぐにサイクリングロードが戻ってくる。

  自転車道とくろ鉄が交互に路盤を使っているようだ。


  自転車道が戻ってきてすぐの所に鉄橋が残っている。

  PATENT SHAFT
AXLETREE CO LTD
ENGINEERS
1900
WEDNESBURY

  イギリス製のようだ。手結-安芸間は1930年の開通だから、どこかのお古を引っ張ってきたことになる。

  橋の名前は分からなった。先には八流の急坂が始まるのが見える。

  八流の登りが始まってすぐの所に架かっているのが赤野鉄橋だ。

  こちらは先程のものより古く、1898年の製造だった。

  隣を走るは国道55号。鉄道よりも急な勾配で、あっという間に高低差をつけてしまう。並走していると実感できるのはこの前後、ほんの僅かな間だけだ。この八流の坂を登る写真が社史に載っていたはずだ。

  横を見ると安芸行き普通列車が走っていった。

  阿佐線は八流の坂を登らず、トンネルで通り抜けてしまう。そのせいで坂を登ったところにあった八流駅は復活しなかった。

  八流荘の下あたりでは、長い切り通しを走る。

  坂が終わり、左カーブに入った所に八流駅のホームが残る。

  昭和8年開業。戦中に廃され、昭和25年に蘇る。ホーム上は建物が建っていたり、倉庫への道路になっている。この倉庫であるが、赤野変電所の跡地である。八流駅にあるのに赤野変電所と呼ぶのは、変電所が作られた昭和24年当時、八流駅がまだ復活していなかったからかもしれない。安芸線廃止後の変電所の建物は建設会社に払い下げられてそのまま倉庫に使われていたという。現在使われている建物は新築されたものだが、敷地はそのままだという。ちなみに赤野変電所は手結安芸間の電気を送っていた。野市変電所と違い、赤野変電所は安芸線と同時に廃止された。

  土佐電鉄50年史によると、手結赤野(八流?)間の帰回路に海水を利用したとある。海水を利用することで、電圧降下の減少やトンネル内でのレールの電蝕を減少する効果があったようだ。手結駅付近では、駅から手結港までケーブルを引き、港内の海底に電極を沈めたそうだ。これは、外海に設置した場合、荒天時の高波で設備が破壊される恐れがあったためとある。赤野については、変電所から海岸までケーブルを引き、大きな岩に電極を設置したらしい。この辺については記憶が曖昧であるため、機会があればきちんと読み直したい。なお、記憶を元に変電所南の海岸を探した所、画像の岩を見つけた。崖の上からワイヤーが張られ、岩の上には何故かポンプが設置されている。これが例の帰回路の跡であろうか??


  その後、50年史を読み直す機会があったので、再度調査を行った。その結果、上の写真は誤りであり、正解はその左側の岩であることがわかった。

  こちらは土佐電鉄50年史から引用した電極投入点の写真である。

  こちらは同じアングルで撮影した現在の様子である。岩のシルエットや左にある小さな岩の様子が変わっていない。また、誤りとした大きな岩であるが、ひょっとしたら設備の老朽化で変更した、二代目や三代目の可能性があるかもしれない。この帰回路に海水を利用する方法は、土電のアイデアはなく、当時の国鉄伊東線での実験結果を、土電の技術者が持ち帰った産物のようだ。


  八流のレストランの下の方は、まるで要塞のようになっている。当時からこうだったわけではないと思うが。

  だいたい同じ所から。画面奥は後免方。八流駅の東はそこそこ長い直線になっている。望遠で撮影したら良い雰囲気だ。カーブの先から今にも電車が走ってきそうだ。




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