浜多度津貨物線跡


 多度津工場の先にはかつて短い貨物線が伸びていた。貨物専用の浜多度津駅へ続いていたので浜多度津線の通称で呼ばれているが、正式には予讃線の支線であった。多度津工場は予讃線の支線の途中にあるという扱いだった。貨物駅が廃止された現在は多度津工場への出入り専用になっていて、工場線と呼ばれている。

 この駅は元々現在の多度津町民会館(サクラート)の位置にあったもので、讃岐鉄道が開設した初代多度津駅の跡だった。船車連絡駅として作られたので港へのアクセスが良く、国有化後の大正二(1913)年に多度津駅が現在地に移転した後も貨物駅の機能が残されていた。 しかし、時代とともに船舶の大型化が進み、讃岐鉄道が開通する頃には既に多度津港の規模も設備も旧態化が指摘されていた。それで明治中頃から港を浚渫し、底の深い船を入れるようにしたほか、浚渫した土砂を埋め立てて岸壁を広げるなど、港湾周辺の改良が初められた。これにより徐々に海岸線が遠ざかり、貨物駅は内陸に取り残されることになった。 昭和3年、多度津町は鉄道大臣に対して、浜多度津駅の多度津内港への移転を打診した。昭和5年夏頃、浚渫した土砂を利用して西浜地区に3000坪の土地を造成し、これを貨物駅移転の用地として鉄道に寄付した。これにより貨物線の延伸が行われ、昭和6年12月に竣工した。

  戦後トラック輸送が台頭したこと、更に石油ショックによる経済の停滞から貨物輸送量の減少が続いたため、昭和50年代から国鉄は貨物駅の集約と小規模貨物駅の整理を進めた。浜多度津駅は比較的遅くまで残ったほうだったが、昭和54(1979)年に廃止された。

参考資料:四鉄史,多度津町誌本誌


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 多度津町民会館サクラート。讃岐鉄道が作った初代多度津駅跡に建てられている。導入の記述通り、すなわち移転前の浜多度津貨物駅跡でもある。


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 サクラートの裏手。フェンスの左は多度津工場。舗装されて駐車場になっている。フェンス沿いに線路が敷かれていた。


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進行方向(貨物駅側)を見る。すぐ横は桜川が流れている。この付近は明治時代以降に埋め立てられた土地で、元は河口だった。河口付近とあってそこそこ川幅が広い。浜多度津線はここに鉄橋をかけて渡っていた。対岸の石積みとコンクリートブロックの境になっているところが浜多度津線の跡。やや盛り上がっているのは築堤の跡だろうか。橋台は残っていないが、21世紀に入って間もない頃までは残っていた。高松市民さんが2005年頃にここを調べたときはまだ健在だった。その頃はちょうど桜川の改修が始まった直後で、まさにギリギリセーフだったようだ。


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 対岸に移動。今さっきまで2本の電柱の間にいた。右の大きな建物がサクラート。


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 進行方向。自転車の後ろに続き空き地が廃線跡。南半分は廃屋の跡。ストリートビューの2012年の画像にはまだ廃屋が写っている。そのストリートビューや↓の空中写真を見る限り、右(北側)の民家の一部も廃線敷だったように見える


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 この付近空中写真。昭和50年代と現代の比較だ。サクラートはまだない。駐車場の位置に見える建物はなんだろう。国鉄病院だったかな。


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 北側から踏切跡を見る。この電柱の横には踏切を示す路面標示(踏切を模した絵)があったらしいが、これも橋台とともに消えたようだ。


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 東浜通りと交差。今は西隣に広い道があるが、昔はこれがメイン道路だった。


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 貨物線は郵便局と隣の建物(商工会議所)の間の辺りを通り抜けていた。ただし、現役当時にはどちらの建物もなかった。商工会議所の定礎画像には昭和56年とあるし、↑の空中写真では郵便局の建物が明らかに小さい。と言うか、古地図には商工会議所の位置に郵便局が描かれている。

昔の写真を発見。貨物線と古い郵便局が写っている(下から3番目)
https://tkamada.web.fc2.com/shiryokan/old_days/old_days.htm
多度津町資料館の公式サイトではなく個人で運営している多度津の資料サイト


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 郵便局の裏手も民家になっている。車が駐まっているあたりが線路跡。左右に横切っている道路は県道215号線。


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県道を渡った先が浜多度津駅(二代目)跡。


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 道路右側の区画が貨物駅跡。長らく空き地だったようだが、今は禅林学園と飲食店や民家が立ち並んでいる。


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 左のコンクリート造りの家までが貨物駅の敷地だった。


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 昭和40年代の浜多度津駅周辺。カラーは現代。移転当初はすぐ横が岸壁だったが、今はさらに埋め立てが進んで海が遠くなっている。





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