十連線(高知県道椎名室戸線三津坂トンネル旧道)

 室戸市の地形図を見ると、室戸高校前から県道を外れ、三津坂トンネルを潜らず、トンネル北側の標高137m付近で峠を越え、海岸線に沿うように緩やかに椎名へと降りていく、旧道のような道が描かれている。これは事実、三津坂トンネルの旧道にあたる道であるが、その歴史を紐解くと、室戸市でも最初期に整備された道路の一つであり、国道55号線の前身とも言える道であった。

 明治二十年(1887年)頃、維新から20年が経過し、庶民にも徐々に新時代の空気が感じられ始めた時代であったが、地方では依然として江戸時代に毛が生えたような文化水準に留まっていた。道路行政もまた同様で、市街地はともかく、村々を結ぶ道は藩政時代のままで、徒歩で往来するほかなく、車輪の付いた乗り物が通行できる道は皆無であった。高知県の後進的な道路行政にメスを入れたのは、第七代高知県令(初代知事)の田辺良顕であった。この頃、香川県の実業家で財田村村長であった大久保諶之丞が、四国の発展のためには県を跨ぐ幹線道路が必要になると考え、多度津から高知を経て松山の三津浜へ至る「四国新道」構想を提唱した。田辺氏はこの考えに賛同し、四国各県の知事らと協働して、知事の立場から強力に四国新道の実現に邁進した。氏の任期は明治二十一年(1888年)で終わったため、在任中にその完成を見ることはなかったが、事業は後任知事に引き継がれ、明治二十七年(1894年)に竣工した。

地図

 田辺氏は四国新道だけでなく、室戸・甲浦方面への道路計画も断行している。しかし、それらは限りある予算と芸東地域の地形の険しさの為、四国新道よりは幾らか後の事業となった。室戸市史によれば、高知から伸びてきた道路が室戸(浮津)まで到達したのは、明治三十三年(1900年)頃と記録されている。それも、途中の橋梁の架設が遅れていたようで、車輪の付いた乗り物で高知から室戸まで直通できるようになったのは、更に後年のことであったようだ。室戸まで到達した道路は、更に佐喜浜、甲浦、徳島県境に至り、徳島県道に接続する予定であった。そして如何に半島の東側に出るかで論争になり、鼻回り線(御崎廻り線とも)、十連線(室戸市史。町誌では椎名坂線)、十連坂線の三派に分かれて紛糾した。鼻回り線は室戸岬を経由する海岸沿いのルートで、早い話が現在の55号線と同じルートである。十連線(椎名坂線)は室戸高校前から火葬場前を経て椎名に至る路線で、最終的にこの路線が採用された。本稿で紹介するのがこの路線である。十連坂線の詳細は不明だが、名称からして、元来より用いられていた古道を改修するか、それに近いルートだったのではないかと思う。明治時代以前、室戸から佐喜浜や甲浦方面を目指す際に用いられていたのは、十連越と呼ばれる古道であった。室戸町誌曰く、そのルートは浮津から室津川沿いを遡り、大久保集落で川を渡って東の鞍部を越え、椎名集落に降りるものだった。この道は現代の地形図からは消えており、それどころか明治三十五年の地形図を最後に描かれなくなっており、正確なルートは判然としない。赤色立体図なら痕跡がわかるかと思ったが、それらしい痕跡は見受けられず、しかも峠周辺には作業用林道と思われるものが張り巡らされており、正確なルートを知ることは困難と思われる。この十連坂線案については、室戸町誌で一言だけ言及されているのみで顛末が記されておらず、室戸市史では触れられてすらいないので、元々マイノリティだったのかもしれない。

 ともかく、海岸線沿いに遠回りするか、山越えで近道するかを巡り、誘致合戦が行われることになった。大勢は山越え案で固まりつつあったようだが、海岸回り派が猛烈な運動を展開した。 曰く、 「山越えよりも物産の運搬に有用であり、距離は山越えと比べて多少長くなるだけで、人家も多く安全である。更に霊場・捕鯨場・港湾・灯台・学校などの主要施設があり、津呂村の事業発展にも大きく関わるものである」というものである。明治時代、半島の先端部は津呂村に属しており、道路が山越えしてしまうと村の大部分が取り残されてしまうため、村にとっては死活問題であった。この問題は紛争を見るかと思われたが、幕引きは思いの外あっさりとしたものになった。半島の東側の高岡・三津の住民から反対意見が出たからである。曰く、「先祖伝来の美田が損なわれる」というもので、県会議員を巻き込んで猛烈な反対運動を巻き起こし、ついには鼻回り線の建設を阻止した。かくして山越えルートの十連線(椎名坂線)の採用に至り、明治三十五年(1902年)に椎名までの道路が開通したのである。

 取り残される形となった津呂村(除く椎名)では、鼻回り線の建設を県に陳情し、早期実現を図った。ずいぶん早い手のひら返し・・・と言うわけではないのだろう。建設反対が村民の総意と言う訳ではなかったのだろうから。それに、偶然か意図的か判断しかねるが、建設されたのは高岡や三津とは反対側の、室津津呂間の支線であった。津呂は津呂村の村役場も置かれた中心地である。明治四十四年(1911年)には室津川河口部に両栄橋が架けられ、両岸の行き来がしやすくなった。大正二年(1913年)には津呂まで道路が完成し、水尻線と呼ばれた。その後、結局津呂から先の道も造られ、椎名で十連線に合流し、鼻回り線が完成した。昭和二年(1927年)のことである。高岡や三津に道路が到達した時期は正確には不明だが、これよりおよそ10年遅れた可能性がある。鼻回り線の開通により、十連線は次第に寂れていった。ただ、岬経由に比べてはるかに近距離であったため、戦後もしばらくは根強い利用があった。とりわけ室戸高校に通う学生の支持は厚かったようである。水尻線は、昭和九年(1934年)の室戸台風で浸食破壊されたため、廃止のうえ山際に付け替えられ、現在の国道の原型となった。現在残っている旧道は、この付け替えによるものである。室戸岬港と室津港の間には、現国道と旧道に挟まれる形で小径が走っており、水尻線の跡ではないかと思う。これらの県道は、昭和二十八年(1953年)に国道に指定され、二級国道の194号線になった後、昭和三十七年(1962年)一級国道に昇格して55号に改番された。この際、国道に指定されたのは、歴史ある十連線ではなく鼻回り線であった。選定に至る詳細な経緯は不明であるが、一般に国道の路線は安全性、経済性、災害リスクなどを総合的に考慮して決定される。明治期に開かれた旧来の峠道よりも、後代に整備された鼻回り線の方が道幅は広く、平坦で直線的であった。さらに人口密集地を経由し、室戸岬へのアクセスにも優れる点を踏まえれば、この決定は自然な流れであったと言えるだろう。十連線はそのまま県道として存続した。

 戦後、町村合併促進法が成立し、昭和の大合併が始まった。昭和34年(1959年)には、室戸岬周辺の5ヶ町村を”コネコネ”して室戸市が誕生した。この合意の条件として、三津坂トンネルの建設が挙げられていた。実はこの三津坂トンネル計画は、昭和初期には既に発案されていたもので、しかも測量まで行われていたと言うから、構想段階にとどまらない、かなり具体化していた計画であったとみられる。しかし、昭和恐慌の影響があったのか、更にはその後の戦争の影響もあったのか、実現には至っていなかったもので、室戸市発足を契機として再び脚光を浴びる形となった。

 工事は昭和三十八年(1963年)に着工されたものの、予算がさっぱり付かず、牛歩のごとき進捗であった。昭和四十五年(1970年)に入るとしびれを切らした地元側が、集中的に陳情を繰り返すようになり、ようやくまとまった予算が下りたことで、工事は本格的に進展した。昭和四十六年(1971年)6月28日、着工から約8年、発案からは40年の歳月を経て、念願の三津坂トンネルは完成を迎えた。この日、溝渕知事や松下市長(当時)など、関係者総勢約200名が集い、完工式が挙行された。西口でテープカットの後、一同が通り初めを行ない、東口で餅投げを行うなど華々しいオープン式典となった。以後、狭い峠道を嫌って室戸岬へ迂回していた交通の流れが、再び十連線(椎名室戸線)へ戻って来ることになった。今日でも、室戸岬方面に用のない車両の多くは、三津坂トンネルを経由していると考えられる。もし三津坂トンネルがより早期に実現していれば、このルートが国道として指定されていた可能性もあったのかもしれない。

 旧道となった峠道は、室戸市へ移管されたが、いよいよ利用価値がなくなり、沿道にある人家や耕作地の持ち主が細々と使うのみとなった。それも徐々になくなり、今は完全に無人化していると思われる。現状の三津坂トンネルの旧道は、GoogleMapからは消えているが、地理院地図を筆頭に大半の地図に記載されたままになっているので、書類上は廃道にはなっていないと思う。しかし、近年の様子については情報がなく、空中写真では樹木に遮られて道形が見えなくなっており、ストリートビューも進入することなく引き返していることから、廃道に近い状態なのではないかと思われた。歴史ある古道が今どんな状況にあるのか、自分の興味を掻き立てた。今回の探索では、室戸側から行くか、椎名側から行くかで少し迷った。初めは十連線の歴史を鑑みて、室戸側から探索するのが良いだろうと思った。しかし、今は椎名室戸線という県道になっていたわけだし、その名の示す通り、起点は椎名側にあったようだ。なお資料集めで古い新聞記事を漁っていると、室津―椎名線という名前や、室戸-椎名線という名前も見られたので、ひょっとしたら途中から起終点が逆転しているのかもしれない。とはいえ、今は椎名が起点みたいなので、最終的に椎名側から行くことにした。というわけで、2022年末、室戸へ向かった。

参考文献:室戸町誌、室戸市史、高知県道路史、高知県土木史、高知新聞昭和46年6月29日朝刊『三津坂トンネル晴れのオープン』

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説明 2022年12月29日。この日は、早朝に佐喜浜林用軌道の末端区間を、正午頃にかけて支線の桑の木谷線を。午後からは十連線の探索という、中々ハード(ゴキゲン)な一日であった。そして午後、自分は室戸にいた。もっと詳細に言えば、廃校水族館として名を馳せた旧椎名小学校が間近に見えるところである。
説明  椎名小学校があるのは、椎名地区よりも少し北で、地形図によれば、飛鳥という地区らしい。つまり、自分は椎名地区の北のハズレ、ほぼ飛鳥地区との境にいる。十連線の入口は椎名地区の南の方、現在地のほぼ反対側である。椎名地区には昭和44年に集落全体をパスするようにバイパス道路ができて、十連線と国道の分岐地点を含む、前後が丸ごと旧道落ちしている。大した距離じゃないし、なにか掘り出し物でもないかと、ついでに見て行こうと考えたわけで。まあ、特に何もなかったけど(ネタバレだぁ)。上の写真のすぐ反対側、国道から狭い生活道路然とした旧道が伸びている。
説明 集落内を真っ直ぐ走る旧国道。往時の雰囲気を残す狭い道が伸びる。写っている軽自動車と比べても、幅はそう広くないことが解る。これでも昭和中期まで国道だった道だ。
説明 集落内を進むに連れ下っていた道が、川の直前で一転上り始めた。自然堤防になっているのかな。
説明 やがて道は椎名川へ出る。そこに古びたRC橋が架かっている。名前は椎名橋という。Q地図だと美濃谷橋ってなってるけど銘板 があるので間違いない。結構古っぽく見えたけど、完成は昭和丗年 (30年)となっていて、戦後のものだった。ちなみに現国道の橋も”新”が付かない、同じ椎名橋という名前である。
説明 南側から見る。工事なのか下部調査なのか、この日は足場が組まれていた。
説明  椎名橋を渡った直後、旧国道から逸れて山を登っていく道が始まる。コレが十連線(県道椎名室戸線の旧道)であり、明治生まれ道路である。
説明 旧道に入ってすぐのところに民家が一件あり、その前には堂々と車が駐車されている。ここは一応今でも公道なのではないかと思うが、もはや誰も通る者がなく、誰かから文句を言われるような状況でもないのだろう。
説明 一応アスファルト、いや、簡易舗装か? とりあえず舗装はあるな。といっても、ものの数百メートルで舗装が途切れ、一気に廃道の様相を呈する、なんてのはこの業界あるあるなので油断はならないが。
説明 すぐ横を見ると、国道の切り通しの真横を通っている。ここにはかつて、椎名隧道というトンネルがあった。無論、鼻回り戦が完成した昭和2年の竣工であった。昭和中期の国道改良工事で開削されて消滅したようである。
説明 一方十連線は、ゆったりとした勾配で標高を上げていく。苔むした舗装、踏まれていない落ち葉たち。程よく熟成が進んでいるようだ。
説明 法面からは溢れんばかりに植物が伸びている。舗装も荒れてきた。ガードレールもこんがり焼けている。
説明  振り返ると椎名の町並みと現国道が見える。逆から来たら、坂を降りてカーブを曲がると椎名の町並みが目に飛び込んでくることになる。いい雰囲気だ。
説明 坂を登っていく十連線。
説明  進んでいくと、不自然に並べられたブロックが目に入った。これは「通行止め」の印だろうか。だが、通行禁止の立て札があるわけでもない。行政がこんな雑な遮断の仕方をするとは思えないし、公道であれば個人の規制に強制力はないはずだ。好意的に解釈するなら、「この先は道が荒れていて危険だから引き返せ」という、やんわりとした忠告だろうか。まあ、こちらは徒歩なのだからモーマンタイ。
説明 沿道には石積みが随所に見られた。開通当時の工事だろうか。
説明 山からの湧き水で湿っている十連線。
説明 溢れんばかりの雑草に覆いかぶさられつつあるる十連線。
説明  だんだん標高が上がってきて、海が遠くなってきた。
説明 轍の間のモヒカンもだいぶ長くなってきたなあ。しっかし、割と奥まで轍が残ってるもんだな。割と最近まで、そこそこ交通量があったのだろうか。
説明  暫く行くと、道の脇に大きな石積みがあった。法面とかではなく、ちょっとした平場になっているようだった。旧版地図 を見ると、大碆と書かれた横に、いくつか建物の表記がある。今では沿道になにもないようだが、昔はちょっとした家が集まった集落があったようだ。
説明 切り通しのようなところを抜ける。
説明 切り通しっぽい所辺りから、舗装が復活している。
説明 この場面だけ見ると、山奥の山道なら普通にありそうな光景だ。まだ普通に走れそう。
説明 コーナーを曲がると進路上が藪化しているのが見えた。いよいよ廃道アタックの始まりかと思われた。
説明 幸い、近くで見ると、密度の高い藪ではなくてホッとした。
説明  と、ここで巨石ゴロリ。脇に木が生えているので、そこまではみ出せば突破できなくもなさそうだけど、四輪車はここまでかな。
説明  そこを抜けると、路肩の木がなくなり、眺望が広がっていた。さっき見た海よりも視界が広い。
説明 これが昭和40年代までドライバーや歩行者が見ていた景色なんだな。
説明 振り返って。変な木があるなと思ったら木製電柱だった。昔の空中写真を見ると、この付近にもチラホラと人家や畑があったようだ。この電柱も、それらの家に電気を送っていたのかもしれない。あるいは街灯でもあったのかな。

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