大志呂トンネル旧線

 ここからは2009年12月の様子である。アプローチの厳しさからしばらく行く気はなかったのだが、半年ほどでまた来てしまった。なぜかと言うと、どうも新トンネルの横坑があるらしいのだ。正確に言うと横坑らしきものの存在の情報は2年も前につかんでいたのだが、前回の探索ではころっと忘れていたのである。しかも省略した100mの間にあったため全くそのものを見ずに終わっていたのだ。写真は前回撮り忘れた1号隧道(仮称)の多度津側坑口。
 肝心の横坑らしきものは1号隧道の目と鼻の先にあった。高知側の橋台のすぐ下である。実際のところ100mもない。前回少し足を伸ばして見ておけばと後悔した。
 内部はこんな感じ。完全素掘りで支保工と思われる木材が散らばっている。そして微妙に水没している。この点は事前情報で知っていたので長靴を用意してきた。
 背後はすぐ断崖だったりする。
 すでに見える位置で崩れていることが確認できる。一応隙間があるので突破できそうだ。天井がやたら白いのはフラッシュが反射しているため。
 落盤の上を覗くと大きな穴があいている。あまり地盤が良いわけではなさそうだ。
 天井はきれいに四角く削られている。
 土砂を超えると一段と深くなった。長靴を履いていても浅いところを選んで歩かないとぬぼってしまう。
 さらに大きな落盤の跡だ。
 これは天井近くまで塞いでしまっている。
 それでも一番奥まで見たくてもぐりこんでみた。
 するとすぐ先に板で穴をふさいでるらしい光景が見えた。
 最深部から入り口を見る。結構深くもぐりこんでいる。その後通過する列車を待ってみたが全く響いてこなかった。どうやら板をどかせば現役線に出るわけでもなく、厚いコンクリートで閉ざされているようだ。

 その後、珍しく図書館に行きいろいろ調べてきた。崩落事故は2月20日午後に発生しているが、一週間ほど前から小さな崩落を何度か起こしており、13日に600m3、17日には200m3の土砂が崩れている。20日の大崩落では実に60000m3もの土砂が崩れたとされている。この災害で現場で監視に当たっていた二人の職員が殉職しており、土讃線は40日間の不通に見舞われている。その当時、土讃線始まって以来の大災害と言われ、自体を重く見た国鉄はルート変更を決定、こうして大志呂トンネルが掘られるきっかけとなったわけである。なお、13日の最初の崩落の時点で既に新トンネルの計画が持ち上がっていたが、その予定線上が20日の崩落で消し飛んでしまい、わずか数日でこの計画は白紙になってしまった。恐らく、軟弱な層を短いトンネルで消極的に避けるものだったのだろう。志摩渕トンネルという名前で計画されていたそうだ。旧線上にも既に同じ名前の隧道が存在しており、もし予定通り完成していたら"新"志摩渕トンネルと呼ばれていたかもしれない。
 なお、旧線に残された2つの隧道の名前であるが、レポート中で第一隧道と呼んでいる短い方のトンネルは樫山隧道、長いほうのトンネルは先述の志摩渕トンネルといった。また、マフラー巻き氏を通じて知ったことであるが、「廃線を歩くX」の巻末資料に昭和23年に鯉ヶ渕隧道が新設されたと書かれていた。このトンネルはロックシェードとして建設されたものだったようで、今回の土砂崩れにより圧壊してしまったらしい。殉職した職員もこのトンネル内で警戒にあたっていたという。また、鉄橋の名前は鯉ヶ渕鉄橋といい、被害は多度津側の橋台と一番桁の崩壊であったそうだ。
 新線である大志呂トンネルについては、6月下旬に着工、貫通日は不明だが、翌年3月にはDF50による試運転が新聞で報じられている。同じ月の22日に2回目の試験を行い、4月2日に共用を開始した。土砂災害から新線完成までの約一年間、旧線が復活したはずなのだが、自分が歩いたとき崩落地点の路盤は消滅していた。現場周辺は沿線でも特に地盤の軟弱なところの一つとされている点から、廃止後しばらくしてまた崩落したのだろう。災害対策で振り替えられたルートのうち最も効果のあった場所ではないだろうか。