五台山ロープモノレール跡
今現在高知県にロープウェイはないが、昔はあった。その名は五台山ロープモノレールといい、その名の通り、高知市若松町の青柳橋の袂から、五台山山上の展望台を結ぶ、延長およそ1キロの路線だった。ロープウェイだかモノレールだかわからないような名前をしているが、ロープウェイのような見た目をしつつ、各搬器にエンジンを搭載しモノレールのように自走するという、大変珍しい自走式索道だった。日本はもちろん、世界的にも珍しい方式で、自分が知る限り、日本以外にはアメリカと、オランダ、スペインにしかなかった。なお後者2つはフランスが輸出したものなので、実質は日米仏の3カ国である。ただしそれらはロープモノレールという名前ではなかったし、動く原理もそれぞれ違うものだったが。 計画の発起人となったのは野村組社長だった野村好久氏だった。この野村組は高知県交通や野村製作所の母体となった野村組ではなく、戦後にできた別会社である。と言っても好久氏は(オリジナルの)野村組創業者の野村茂久馬氏の6男で、(新)野村組と(オリジナルの)野村組とは深い関係にあるのだが)。 開業に至るまでの経緯は、民間企業でしかも短命に終わったためか、資料が乏しく、わからないことが多い。当時の新聞記事を見ると、元々は筆山に計画されていたようだが、施工上の問題があって五台山に変更されたようである。そして筆山には、過去にもロープウェイの計画があったようだ。これは南国博のとき高知市が主体となって計画したものだった。これは予算の都合で実現しなかったものの、当時の報道によれば、その後も民間団体の手で建設が実現するよう働きかけが行われていたようである。この話が巡り巡って野村氏のところに届いたのかもしれない。ただ本人は、初期のインタビューに、「土電や県交が研究すべきだが、なかなか気が付かないので爆弾を落としてやった」と、なかなか強気なコメントを残している。さらに開業後には、こどもの国(遊園地的なもの?)や国民宿舎の建設、観光公社設立などの構想を語ったりと、割とノリノリな様子も感じられる。案外、野村氏本人の発案なのかもしれない。何れにしても、山頂に展望台くらいしかない筆山よりは、五台山のほうが良い選択だっただろう。 斯くしてロープモノレールは開業したが、利用率は今ひとつであった。「世界でもここだけしかない」という触れ込みで、開業直後は話題を呼んだが、御祝儀期間が終わると客足は伸び悩んだ。1973年に11万7千人を超える利用者を記録したものの、これは前年の9.15豪雨で五台山観光道路で土砂崩れがあり、復旧工事が済むまで団体客の利用が集中したからだったようだ。事実、これが落ち着くと乗客は減少の一途を辿った。同じ年にオイルショックが発生すると、燃料費や物価が大幅に高騰し、運営を圧迫した。一般庶民の財布の紐も固くなり、旅行者は大幅に激減した。翌1974年には累積一億、単年度2000万の大赤字を記録した。この年、運賃の値上げを実施。料金は5割増となり、大人料金は200→300円、小児100→150円となった。しかし大幅な経営改善とはならず、ジリ貧の状態が続いた。 1978年9月、経営不振を理由に高松陸運局に営業休止の届け出が出された。届けは28日に受理された。休止期間は9月からと伝わっているので、即日か遅くとも2日以内に休止状態に入ったようだ。一応2年半の期限付きで、復活に含みをもたせた形ではあった。しかし、81年3月の期限切れ間近となっても経営改善の兆しが見られないことから、5月の株主総会で廃止と会社の解散が議決され、廃線が決定的となった。陸運局も、経済的に事業廃止はやむを得ず、バスでの代替が十分に可能との判断から、6月1日付で廃止届を認可し、正式に五台山ロープモノレールの消滅が決まった。設備を売却して移設しようという話も県内外からいくつか寄せられたようだが、移設費用がかさむことから実らず、このなんとも珍しい乗り物は日本から姿を消すこととなったのだった。 1年後の1982年6月には鉄塔の解体工事が行われた。麓の駅舎は何時頃撤去されたか分からなかったが、1983年10月頃までは現存していたようだ。駅舎とともに入居していたタクシー会社や食堂が営業を続けていたかららしい。また閉鎖された駅舎部分には、一時期建設会社が入居していたようだ。しかし、この駅舎は河川の占有許可を受けて国分川の上に建てられたものでなので、許可の条件にはない使い方がされていると県議会で指摘された。そのためその後直ちに撤去指示が出されたか、そうでなくとも85年には河川の占有許可が切れるので、それまでに解体されたと思われる。一方山上の駅舎は県に譲渡され、展望台や喫茶、売店などが入る「展望サービスセンター」に改装された。これは21世紀まで残ったが、耐震強度が不十分であることが判明したことから解体が決まっており、これを書いている現時点ですでに撤去が終わっていることと思う。索道は空中に張られたケーブルが通り道だから、地上にはほとんど痕跡が残らない。2つの駅跡を除けば、ケーブルを支えていた鉄塔の跡くらいであろう。今回は山頂の展望台を見た後、鉄塔の痕跡を探して山を下り、麓の駅跡まで行ってみようと思う。
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五台山展望サービスセンター。上記の通り旧山上駅(国見停留場)を改装したものである。。近年まで売店や喫茶が営業していたが、上記の通り、解体に向けて全て退去していた。
現役時代の映像やら写真は見たことがないが、常識的に考えれば、1階は切符売り場とか待合室だっただろう。あいにくシャッターが降りていて中は伺いしれない。解体が決まる前、まだ売店が営業していた頃に一度来たが、見える範囲に駅だった名残はなかったと記憶している。
屋上の展望台は開放されていて入場フリーだった。
2階の食堂跡。
廃墟化している。近年まで現代企業社の喫茶レストランが入っていたはず。駅舎時代も食堂だったようだ。水道やら排水の設備が残っていたからこそ、現代企業のレストランが営業できたわけだ。
2Fから屋上への階段。えらい天井が低いな。昔は立入禁止だったのかな? ・・・いや、一般人が屋上からロープモノレールを撮ったと思われる写真をいくつも見たことがある。昔も展望台だったはずだ。もうちょっと高く設計しようという気はなかったのだろうか。
屋上から展望台が伸びる。この展望台はロープモノレールの支柱を再利用したものと誤解されることがあるが、新設したものである。展望サービスセンターが開業した当時の新聞にも新設したものと明記されている。搬器は駅手前(この展望台よりも手前)で、横取り装置的なものでワイヤーから外され、駅構内は鋼製レール(ハードレール)を走行していた。鋼製レールを支える支柱は展望台を取り囲むように複数本設置されていて、中央に太い柱が一本立っているというわけでもなかった。高さもこの展望台よりだいぶ低かった。
そもそもここは、ワイヤーロープを固定する巨大なアンカーが設置されていた場所で、柱を立てるスペースなど元からなかった。
こんなところにRKCのカメラ。あれかな? ローカルニュースの隙間に入る高知市の展望映像。ここから送られていたのね。建物がなくなったら次はどこに設置されるのだろう。
麓駅の方向を見る。あの橋の袂に駅舎があった。
これは余談だが、この当時高知南国道路は建設中で、展望台から工事の様子がよく見えた。
駅裏手に移動。駅は斜面に建てられており、正面から見ると二階建てだが、裏から見ると三階建てに見える。乗り場は地下部分にあった。
床のタイルがカーブしているところが搬器の走行路跡。床下にエンジンや油圧ポンプが設置されていたので、その分掘り下げられて溝になっていた。ちなみに搬器の点検は(恐らく)麓駅の方で行っていたが、頂上駅にも簡単な点検用の孔があったそうだ。探索当時は知らなかったので確認できなかったが、転落してトラブルの原因になりそうなものを残しておくとも思えない。というか、植え込みになっているっぽい(画像奥のあたり))
乗り場の隅に階段があった。待合室からの通路だったのかな? それとも駅員の通り道かな?
上ってみたらシャッターに行き当たった。昔はここから利用客が下へ降りていったようだ。側面の小さなシャッターは改札口だったのかな?
地面には鉄棒を切った痕がある。便がないときや混雑したときに鎖を張って入場を制限していたのだろうか。あるいは左右で階段を降りる人と上がる人を分けていたのだろうか。
展望台の後ろ側。ここにも柱が一本あった。資料の青写真には出入り口フレームという名称が記されている。坂を登ってきたケーブルはこの柱の上で山を描いて地上のアンカーに接続していた。搬器はここでケーブルを離れ、ハードレールに進んでいた。
駅を出て鉄塔の跡を辿りに行く。並行する遊歩道を下るだけの簡単なお仕事です。
なお今回、現在地の把握はお手軽にアプリ頼み。
やがて遊歩道から一本の徒歩道が分岐する。遍路道の標識があるので、竹林寺へ向かう道かな。
スマホの画像を頼りに進んでいくと、確かにコンクリートの土台らしきものが見つかった。
土台1。
土台2。見つかった土台はこの2つ。残りは斜面の上か下にあるのだろうが未発見。錆びたボルトが残っている。なお鉄塔は三本あって、上から3号柱、2号柱、下が1号柱。ここは3号柱。高さは約20mで3本の鉄塔の内で一番小さかった。出入り口フレームからの距離は水平距離で約90m。
遊歩道へ戻り、2号塔へ。途中車道をまたぐ。
石畳の遊歩道が続く。
遊歩道がカーブしているところから道を外れる。
鉄塔管理用の道だったのかね。なんとなく古い平場があるっぽい。
ヘアピンで折り返していた。
そして2号柱の土台と思われるものもみつかった。
3。
4。ここは四か所全部確認できた。あくまで"思われるもの"だが、昔の空中写真を見ながら探したので、十中八九アタリだと思う。鉄塔の高さは33m。3号塔からは140m離れている。
ちょっと飛んでいきなり1号柱跡。この間はまっすぐ進む道がなく右往左往したので写真は撮らなかった。でも1号柱は兼山神社の前というかなりわかりやすい位置に立っていたので、一番わかり易い。
しかし、1号柱の土台は自分には見つけられなかった。藪に埋もれて見つけられないだけなのか、それとも完全に撤去されてしまったのか。
多分後者だと思う。このへんは神社の土地で、ロープモノレールは賃料を払って鉄塔を建てていたらしい。撤収するときに原状回復を徹底するよう条件がついていてもおかしくないだろう。ちなみに賃料は年間5万円だったそうだ。
昭和50年の空中写真。兼山神社の角に1号塔があったことがわかる。鉄塔の高さは3本中最も高い37mで、2号柱からの距離は距離は約240m。麓駅からは国分川の河口をまたぐ関係で500m近く離れている。
青柳橋を渡り麓駅(青柳停留所)へ。
青柳橋の西詰の角に駅はあった。正確に言えば、水中に杭を立て、川に張り出すように建っていたので、地上部分に掛かっていた部分は少なかったようだ。現在駅跡(駅前広場跡)はタクシー会社の駐車場になっている。現役時代もタクシー会社があったらしいが、同じ会社かな?
水が濁っていてなにか痕跡があるかは確認できない。地上部分についても、護岸工事によってなくなっているようだ。
在りし日の麓駅(青柳停留場)。2階部分から発着していたようだ。搬器が自走し、その操作も各搬器から個別に行っていたことから、信号による管制が行われていた。この写真でも駅の入口に2灯式信号機らしきものが見える。当然出発信号機もあった。さらにCTSという、鉄道のATS装置に相当する安全装備も備えていたらしい。ちなみに搬器は本線上に出しっぱにはせず、車庫にしまっていた。車庫があったも麓駅だった。車庫は側線になっていて、入口には分岐器があった。分岐器で行き先を変えられるのもロープモノレールの強みだったが、五台山以外に実現しなかったので活かされることはなかった。
土木技術24巻10号より引用
麓から山上駅方向を見る。この景色ももう失われてしまった。