伊尾木林道仙谷線 その2
本日最初の仙谷川に架かっていた橋の跡である。これまでに見た橋台は、すべて支流のものである。これまでそうだったように、橋本体は残っていない。この先も一本たりとも橋は残っていなかった。下を見下ろすと、決して小さくはない高低差がある。仙谷線は幾度も仙谷川を渡るので、こう何度も登り降りしなくてはならないのは気が萎えそうだ。
対岸の橋台は崩落したのか、それらしき痕跡すらない。軌道は橋を頂点にヘアピンカーブを描いており、橋を渡った所で更に右に(下流方向に)曲がっている。ヘアピンと言っても、橋を挟んでいるので直角カーブの連続というのが正解だろうか。ここでは便宜上、180度の折り返しを全部ヘアピンカーブと呼ぶことにする。対岸に渡ったあとも、間髪入れずにすぐ路体が崩壊している。まるでこの先の状況を暗示しているようで気が重い。と言っても、奥安居ほどには厳しくはないけど。
川へ降り、橋台を見上げる。こちらも中々に大きく圧倒されるが、
積まれた石を数えてみると14段しかない。基部の岩盤の厚さでズルをしている。
真ん中からバカ殿みたいにチョンマゲが生えているのがなんとも可笑しい。
そこは段になっており、橋脚を立てる部分だと推測される。
対岸へよじ登り、橋の跡を見る。土砂がたまり、大幅に視点が上がっている。
同じところから先を見る。ここから見る限り、荒れているのは橋台の周辺だけのようだ。
第一、第二ヘアピン周辺はゆるい斜面を通過しており、かなり歩きやすい。
周囲の斜面には段々に平地が存在しており、集落か畑の跡のようになっている。それはやがて軌道沿いにも現れ、人々の生活の営みを想像させる、大量の遺留品を見つけることになった。。
まず目についたのは、多くの焼き物類である。花瓶とか食器だとかだ。この花瓶だと思われる白い焼物の瓶は、割れや欠けがなく、年月をまるで感じさせない。今でも十分使用に耐えそうだ。
皿を持ち込んでいるのは、短くはないある期間、ここで生活することがわかっていたからだ。一般の住居か、作業員の宿舎か分からないが、とにかく人が暮らせる建物があったということだ。
大量の空き瓶は集落跡でも事業所跡でもよく見かける。レンガも然り。割れた瓶(カメ)は集落跡によくある気がする。ヤカンは林道や事業所跡などでよく見かける。ここに一般の人が暮らす集落と、林道の施設が両方あったのかもしれない。
空き缶も見つけた。塗色はだいぶ褪せているが、Meijiという見慣れたロゴと、粉ミルクという文字が見えた。こういう大手企業の製品は時代を考察する鍵になる。缶には青い服を着た少女と思しき姿が描かれている。明治の公式サイトをみると、粉ミルクの歴史というコンテンツがあった。見つけた缶と見比べると、1954(S29)〜61年に販売された「明治コナミルクL」が、缶の形状デザイン共に酷似している。明治のロゴは55年に変更になっているが、見付けた缶は変更後のロゴが使われていたので、55年からの6年間に持ち込まれた可能性が高い。その頃はこの集落も有人だったはずだ。
この小さな白いものは電線が繋がっている。これは菊型ローゼットというものだ。天井に照明を取り付けるための電気部品である。少なくともこの集落に電気が使える時代はあったようだ。小川線のように自家発電していたのか、外部から給電されていたのか、ここではまだわからない。
奥に目を向けると、ぶっちゃけた小屋の残骸が見える。
裏に回ってみると、潰れた屋根の下は水たまりになっていた。そして風呂釜が鎮座しているのも見える。これは風呂と便所らしい。落っこちたら普通に水に濡れる以上に深い精神的な傷を負う事になる。腐った板やトタンの上を歩いてはいけないというのはこういうことである。
この小屋の周りにも数々の物品が遺っていたが、これが自分の目を引いた。これは石油ランプのホヤである。それも、その形状から"らっきょうほや"と呼ばれているのものだ。電気の通っていない時代はこれを照明として用いていたのであろう。恐らく、電化されていた時代よりも電気のない時代のほうが長かったと思われる。私事だが、むかし、石油ランプが無性に欲しかった時がある(今でも欲しい)。生まれる時代を間違えたな。
ここで見つけたものは、どれもこれも大変興味深いものだった。だが、ものすごいものに気づいてしまった。
思わずチビりそうになった。伊尾木線以来の潰れていない建物だ。
民家? それとも事業所跡? どの道こんな面白そうなものを放っておく手はない。
思わず"ウェーイ"なんて意味もなく叫んじまったよ。
すぐに駆け寄りたい気分だが、あくまで軌道をトレースしてゆく。軌道はこの先のヘアピンで向きを変え、あの建物のそばを通過するはずだ。お楽しみはその時までとっておこう。
道はヘアピンに向かい、まだまだ奥に続いている。この周辺は多くの建物があったようで、隣接する土地はどれも石垣できれいに整えられている。さながらこの地区の銀座一丁目というわけだ。
小屋を離れたあとも、面白そうなものが行く手にポツポツ落ちていた。この茶色いブツも電気部品である。安全器またはカットアウトスイッチと呼ばれるもので、ブレーカーが普及する以前の同じ役割を持つ器具である。"式岡高"と右書きになっていることから、相当に古いものだと予測されたが、ググってみると、世の中には物好きがいるもので、これと同じものについて紹介しているブログが見つかった。どうやら戦前のものらしい。仙谷線は戦前に建設された路線であるから、そのときに持ち込まれたものかもしれない。
これは学生服のボタンだ。たぶん汎用品だろうからどこの学校かは分からないが、ここから通うとなると安芸市内の学校になるのだろう。
軌道は集落跡を行き過ぎると左にカーブしている。左手は山。それはすなわち、みんなが大好き(そうでしょ?)ヘアピンカーブである。
築堤は石積みになっており、丁寧な作りになっている。ヘアピンの内側には小さな谷水が流れており、自由に使える水場になっていたのではと思う。
軌道は再び集落内に入っていゆく。石積みはこの段の周りにも続いており、雑多な物が落ちている。最初に思った以上に多くの人家が存在していたようだ。現代の地形図からは消えているが、この右手の山の鞍部を越える古道があり、そこを越えると伊尾木川沿いに出られ、そこにもまた集落があった。今ではそのどちらも廃村化している。
そしてコイツを忘れてはいけない。ぽつんと一軒だけ残るこの廃屋。なぜこの一軒だけ残っているのだろう。
果たして民家なのか、営林関係のものなのか!?
近くで見ると、下から見上げたとき以上にボロい。日当たりの問題か、風の関係か、軌道側に面した壁はまるでダメージを受けていないのに、側面の壁は穴どころではなく、まるごとなくなっている。
家の外にはこの家の住民が使っていたと思われる遺物が落ちている。鉄製のホースリールのようなものと、手動脱水機式の電気洗濯機。日立のロゴが入っているのを確認したが、型番は控えてこなかった。型番がわかればいつ頃の製品かわかったかもしれないし、有人だった時期を絞る鍵になったと思うが、考えが及ばなかった。右端のは焼き物の湯たんぽである。
建物の正面。二階建てだが、外に出ないと上下の行き来ができない造りになっている。そして屋根がトタン葺きなのに気づいた。小川線の事業所跡で見た小屋の残骸もトタン葺きだった。同じトタンなのに、こちらはまだ屋根が抜けていないようだ。この差はなんだろう。湿気が溜まりにくい立地なのだろうか。あるいは長く使えるように、何らかの工夫が凝らされているのだろうか。
一階部分は台所だったと思われる。まず狭い入口を入るとそこは廊下になっており、食材の入っていた缶や瓶が置かれている。中にはまだ内容物の残るものがあった。
そしてその右手が大きな一つの部屋になっている。この部屋が一階の大半を占めている。ここで円机を囲んで食事していたのだろう。ここにも菊型ローゼットが設置されており、食卓を明るく照らしていたようだ。手前の黒いものはタンスである。床板が徹底的に破壊されているのは湿気のせいだろうか。
床板が壊滅的にいたんでいるが、何故か天井もなくなっており、二階の天井まで丸見えになっている。これも腐り落ちたのだろうか。その割には長押がきれいだ。住人が退居時に剥がしたのだろうか。
奥から見る。手前の柱が宙ぶらりんになっている。これは湿気でやられたものだ。この状態でも家の形をとどめているのが驚きだ。
この傍らに"L.P.G REGULATOR"と書かれた部品が落ちていた。ねずみ色のガスタンクも同じように捨てられていた。どうやらガスも使っていたようだ。水道がないと思われる以外、案外快適な生活を送っていたようだ。
二階に上がってみる。二階には二つの部屋があり、下から見た通り床がない。ここで柱が腐っても家が倒れなかった理由がわかる。二階の半分が石垣の上に造られており、それが支えになっているからだ。
だが、歪みは無視できないレベルで生じているようで、幾つもの柱が外れて倒れ掛かってきている。この建物も寿命は迫りつつあるようだ。
この柱の外れた一角は屋根が長く、差し掛けになっている。ここは農機具を置いたり、大根や芋を干したりしていたと思われる。そこにこんなものがあった。社会科の教科書で見たよこれ。唐箕っていうやつだ。風の力で米を籾と玄米に分ける道具である。これを発見するまで、ここが普通の民家なのか、あるいは事業所や作業員宿舎などの営林署の建物なのか、ずっと迷っていた。しかし、営林署が米作(あるいは豆かや蕎麦)を行っていたというのは聞いたことが無い。すると、ここは民家だったと考えるのがあっていそうだ。いささかがっかりしたが、それでも昭和30年代から時が止まった貴重な空間は興味深いものだ。
ところで電気の話だが、電気は外部から供給されていたようだ。電力計の箱が残っていたので、電力会社から購入していたことが分かる。他にも安芸市の家屋調査済み標があった。安芸市の発足は昭和29(1954)年のことで、それ以前は安芸町だった。これも、その頃までこの集落が有人だったことの証しと言えそうだ。軌道がなくなり、一軒また一軒と家が無くなっていったのだろう。
別れを惜しむように最後にシャッターを切った。この家はこの集落で最後に建てられた、一番新しい家だったのかもしれない。ここに住んでいたのはどんな人だろう。戦後まで有人だったのだから、当時若ければまだ存命かも知れないし、軌道のことも覚えているかもしれない。会って当時の話でも聞いてみたいものだ。
そして軌道跡は、変わらず先へ続いている。道はまだ半ばだ。