高知市の南西部に位置する。高知県で最小の面積(約91.5平方キロ)の市。高知市からの距離は約15キロで、自動車で30分ほどの距離(市役所間)。波介川流域と仁淀川右岸の河口付近に市域が広がっている。平野、山、川、海、リアス海岸と変化に富む地形を持っている。 土佐市の発足は1959(S34)年4月1日のこと。それまでに以下のような経緯を辿っている
高岡町上記8ヶ町村で最も繁栄しており、中心的存在である。現在も土佐市役所など、行政機関や公共サービスが集中している。かつて蓮池村土居(現土佐市土居)の独立丘には蓮池城があり、その市町として高岡は栄えた。高岡という地名は市南部の丘陵地帯(御領寺山脈の東端)の"高い丘"から来ているようだ。 蓮池村高岡町の西隣で土佐市中心部から数分ほどの位置。上述のとおり、土居地区に平山城の蓮池城があった。城址の南にある古市地区は高岡が新たに市町として栄える以前の市町で、高岡に対して古い市町であるため古市地区と呼ばれるようになった。近辺は低湿地で、蓮の生える大きな池があったことから。蓮池の名が生まれた。 高石村高岡と新居の間にあり、用石、塚地、中島の地区からなる。明治時代につくられた新しい地名だが、その由来については、高い石垣を巡らす村だとか、高石神社に由来するとか言われ、はっきりと要領を得ない。また高石神社にしても、その円滑や祭神などは伝わっておらず、謎が多い。 波介村波介川の南岸に広がる東西にやや長い村。東は神母神社、西は土佐PA付近までが村域だった。波介は「はげ」と読む。毛の薄い人に喧嘩を売っているような名前であるが、無論そのような意図はない。名前の由来について「高知県市町村合併史」は、水害の常習地であったことから水の捌け道のハケを意味するのではないかとしている。また「仁淀川財産目録」(http://niyodozaisan.jugem.jp/?cid=2)には、"波介川の氾濫と、小野の樋台から逆流する逆水で、田面がホゲ通しのムラだった"とある。小野と言うのは波介川と仁淀川の合流部付近の地名である(波介川に架かる県道364号の橋が小野橋という。またその南東には小野の茶屋という小さな食堂がある)。波介川は下流部では河川勾配がゆるく、仁淀川が氾濫すると波介川に水が逆流することが度々あった。「介」という漢字には、間に挟まるという意味がある。逆流した水は波介川の流れとぶつかり、溢れた水で付近の土地は大きく抉れる(ハゲる)こととなった。以上のことを総合すれば、波介という地名とハゲという音が生まれたと推測できそうだ。 北原村土佐市北西部に位置する。土佐市中心部からは村の中心部までは4キロ強ほど。山間の土地が多く、斜面では柑橘類の栽培も盛ん。佐川町へ抜ける県道が抜けており、途中の谷地地区は標高が旧役場付近が10-20mに対し、200m前後と高く、ちょっとした高原のようになっている(広さがないので高原とは呼べないが)。そこではショウガ栽培も盛ん。村名は明治以前の旧村名(北地村、甲原村)をあわせた合成地名(谷地はどこへ行ったのだろう?)。 戸波村土佐市西部に位置する。明治時代に10の村が合併してできた村で、旧8ヶ町村で最大の面積を持っていた。今で言う、高知道の土佐PAの付近から西が戸波村だった。土佐PA南の小山にはかつて戸波城があり、一条市の家臣や長宗我部氏の家臣が居城したという。一帯は波介川の上流部であり、東の標高が少し低以外は水害に悩まされることも少なく、米作が盛んだった。名前の由来は辺端の当て字ではないかとされている。 宇佐町太平洋に面した宇佐町は、やはり漁業をが盛んであり、特にカツオ漁の基地として栄えてきた。改良土佐節の発祥の地としても知られる。また、浦ノ内湾という長大な内海の入り口に位置することから、近代以降はマリンスポーツの基地としても有名である。横波半島の先端部分の宇都賀山周辺も町域に含まれる。これは、湾口を横断する渡し舟があり、その地区と宇佐との交流が深かったためである。「宇佐の渡し」「龍の渡し」という名前で知られ、弘法大師も渡ったとの記録が残っている。昭和期に宇佐大橋が開通するまで、主要な交通路となっていた。宇佐小学校の北西にある宇佐八幡宮は大分県の宇佐神宮を勧請したものであり、村名の由来にもなっている。 新居村仁淀川河口部と太平洋に囲まれた地域に新居村があった。村名の由来には、遠い昔この地域を三井郷と呼んだことから"三井"が変化したものだとか、あるいは仁淀川河口部の開けた地域であるから、新開地を意味するものだとする説がある。仁淀川が運んだ肥沃な土地に恵まれ、農業を営む村民が多かった。太平洋に面しており、漁業も行われていたが、漁港がないためもっぱら地引網漁が盛んであったという。近年、この地域で縄文時代の遺跡が発掘されており、遥か太古より人間が住み着いていたようだ。 合併の経緯高東地区の8ヶ町村は、歴史、経済、文化的にも極めて関係が深く、合併によって大高岡町をなし、市制を施行しようというのは長年に渡る懸案となっていた。昭和28年10月、町村合併促進法が施行されると、各地でにわかに市町村合併の機運が高まった。高東地域でも「高東地区町村合併研究会」が組織され、市町村合併実現に向けて動き出すこととなった。しかし、波介川流域の6町村については前向きな姿勢であったものの、新居村と宇佐町については消極的な姿勢を示した。これは戦時中に国策で行われた市町村合併があったからだった。 宇佐町と新居村は、太平洋戦争勃発直後の昭和17年(1942)にも合併を経験している。「国力増強・戦争完遂」を掲げる時の政権は、戦時体制強化のために国防上重要な軍事施設を持つ自治体や、大規模な軍需工場を持つ自治体、あるいは無駄の多い弱小自治体に合併を指示した。戦時合併とも呼ばれる。宇佐と新居の合併も、戦争を背景とした合併だった。太平洋に面したこれらの地域は当然、国防上重要視されていたと思われ、事実、この地域には特攻隊基地を含む様々な軍事施設が造られている。それらの遺構は朽ち果てながらも現代まで残っている。新自治体名は、宇佐の頭に新居の"新"の字をくっつけ、新宇佐町となった。そのひねりのなさが、戦時合併の特殊さというか、テキトーさを表している。 やがて戦争が終わり、戦時体制強化のための合併の意義は失われた。国益優先で行われた合併は住民にとってはデメリットである場合が少なくなく、そういった自治体では元の村や町に戻ろうとする動きが活発に起こった。政府もそういった自治体を念頭に、昭和23年(1948)から2年間「戦時中に(民意を無視して)合併が行われたところでは、住民の希望によっては簡素な手続きで元の状態に戻れる」ように措置を講じた。 新宇佐町でも、合併が強制されたものであるとして分離の動きが起こり、昭和24年4月に分離し、新居村と宇佐町が再設置された。 ことに、宇佐町の態度が一番の問題だった。町議会が賛成派と反対派の真っ二つに分かれて対立が激化していたのである。市制を敷くには色々と条件があり、それをクリアするには宇佐町と新居村の合流が不可欠だったが、このような状況では早急に意見をまとめるのは困難であった。隣の新居村でもやはり合併に消極的な状況だったことから、ひとまず6町村での合併が行われることになった。元々これらの自治体間には、学校組合を始めとする、社会的、経済的、文化的な協力関係が築かれており、合併協議会が結成される直前にも病院組合を設立するなど、たいへん良好な関係だった。合併を頓挫させるような懸念事項もなく、むしろ波介川の治水に協力して当たるべしという連帯感さえ生まれていた。かくして昭和29年4月1日、高岡町(第二次)が発足することとなった。これは第一次合併と位置づけられている。第一次合併成立後も市制の思いはくすぶり続けていた。昭和29年7月、高岡町議会内に「市制促進委員会」が設置され、新居村と宇佐町を交えて懇談会を開いている。県からの強い指導があったほか、議会の働きかけも続けられた。しかし、結論を出すには至らなかった。 高岡町との合併協議の一方で、宇佐、新居、浦ノ内(現須崎市)との三者による合併話が持ち上がり、合併研究会も結成されていた。高岡町との合併賛成派の議員の中には、「そんな空気の中では仕方がない」と辞職を表明するものが出始め、欠員が7人に達した。町民はそんな議会にホトホト愛想が尽きたのか、議会の解散請求をする動きが出た。日増しにその声は大きくなり、法定の署名を集めたことから、10月半ばには正式に解散請求が出される事態となった。12月には住民投票が行われることになったが、その直前に議員が総辞職したことから実行されず、取り敢えずこ点についてはこれで幕引きとなった。 昭和31年6月、町村合併促進法が10月に期限切れを迎えるため、日本政府は次の一手として「新市町村建設促進法」を施行した。10月以降も引き続いて、未合併の自治体の合併をそれまで以上に強力に推し進めていった。一時下火状態になっていた高岡町の合併問題も、国のそうした方針を受けて、再び活発になっていった。 このころの宇佐町では、議員の総辞職によって新人議員が大勢生まれ、議会の空気が以前とは変化していた。加えて町長選で合併推進派の候補が選出されるなど、情勢に大きな変化があった。こうした事が下地となった他、県や知事からの引き続きの指導や勧告、さらに高東地域以外の市町村合併の動きなども影響し、大勢は急速に合併推進へと動いていった。 昭和33年3月17日、各町村議会で合併が可決され、第二次合併が成立した。自治体名は引き続き高岡町が採用され、4月1日より発足しる事となった。そのわずか5日後に地方自治法が改正され、市制の条件が「人口3万以上」と大幅に緩和されることになった。高岡町はその条件を満たしており、市制がかねてからの懸案であったことから急速に話はまとまり、9月の臨時議会で全会一致でそれを可決した。市名は「土佐国内において占める本市の重要性とその店頭について住民の誇りを端的に表現したもの」土佐紙や土佐節など産業経済に深いつながりがあるとして「土佐市」と定められた。昭和34年1月1日より市制を施行しこうして土佐市が誕生した。 (参考資料:土佐市史、高知県市町村合併史、角川日本地名大辞典高知県版) もどる |