安芸線跡

 現在、JR後免駅より野市町、赤岡町、夜須町、芸西村、安芸市、安田町、田野町を経て奈半利に至る路線がある。2002年に開業したばかりの土佐くろしお鉄道阿佐線(愛称:ごめん・なはり線)である。五十代六十代より上の方なら、それ以前にも同じようなルートを走る、安芸線という土佐電鉄の路線があったのを覚えているだろう。この路線が敷かれたのは、今からおおよそ80年も昔、大正時代の話である。元々は高知鉄道という鉄道会社が敷設したものだが、戦争のゴタゴタを経て土佐電鉄の路線となった。かつては地域住民の足として東奔西走していたが、高度経済成長を迎え、マイカーブームが到来すると、多くの地方鉄道が辿ったように、この路線も赤字を抱えるようになってしまった。ここが他と違ったのは、国鉄の計画線と並行しており、用地の転用が利いたことである。1974年4月、国鉄に未来と用地を託し、安芸線は廃止された。完成まで28年、宣伝よりもだいぶ短い路線になるなどこの時誰が予想し得ただろうか。
 さて先述の通り、安芸線の路盤は阿佐線の建設用地に転用された。阿佐線は高架が多く、地上には遺構がかなり残っているはずである。と言うわけで、ここを巡ってみることにした。国道と平行しており、一部の区間では跡地が自転車道に整備されたため、移動には自転車が適している。延長約十七キロ。路線丸々一つ分の巨大物件である。
安芸線
 安芸線の起点があった後免駅に来た。安芸線の乗り場は南東の隅にあり、駐車場になっている部分がそうだったのだろうと思う。短い自社専用ホームの他に国鉄の1番ホームを土讃線と挟み合う感じで共用していた。阿佐線乗り入れの際の改修でホームが西に移動しているため、当時とは様変わりしている。
   安芸線は開業当初から後免駅に乗り入れていた訳ではなかった。その頃の土讃線は全通はおろか、同じ年に須崎高知間が高知線という名前でやっと開通したばかりで、後免駅は存在していない。安芸線一期線(後免手結間)開通後の1925年12月、高知土佐山田間の開通と共に後免駅も開業する。安芸線の後免駅乗り入れは翌年4月からである。


安芸線
 後免駅の共用ホーム跡を見る。かつての一番ホームは今よりもずっと東に長くファミリーマート裏辺りまで伸びていた。ホームを西へずらし、撤去した跡に阿佐線の高架が造られている。安芸線時代は国鉄との直通列車があったため、渡り線が設置されており、貨物列車が直通していた。旧一番ホームの多度津方の端は、この渡り線にあわせて少し角を切った構造になっていた。
 


安芸線
 分岐地点に移動した。右の地上線が土讃線、左のコンクリートの壁が阿佐線であるが、当時の線路の位置とは若干北にずれているようだ。
 


安芸線
 同じ場所から安芸方面を見る。ここからしばらく線路跡はくろ鉄の高架下にある。阿佐線が安芸線跡に作られたので当然と言えば当然であるが。なお、すぐそばに犬がいて、ワンワン五月蝿かったのでかったのですぐ引き返してきた。オバQではないが、私は犬が嫌いなのである。


安芸線
 150メートル程進んだだろうか。。右カーブの中間あたりだったと思う。途中フェンスが立っていて道なりに進めないため迂回を繰り返している。そのため先ほどからあまり進んでいない。

安芸線
 舟入川と交わる所にモロそれと分かるものを発見。安芸線の橋台である。反対側はどうみても高さが足りないので、もともと築堤だったのが切り崩された模様。

安芸線
 右カーブも終わり、直線区間になる。そしてすぐ、今度は進路を左に取り後免町へと至る。

 2013年追記
 ここの道路や高架下は安芸線の跡ではないようだ。

安芸線
 古い空中写真と見比べると、舟入川の橋台を過ぎた後すぐ、この画像の位置からくろ鉄が左へ逸れているようだ。

安芸線
 奥へ続く道路と、それに沿って建つ住宅が安芸線の路盤の跡のようだ。

安芸線
 保育所の角に来た。右側の家が安芸線の路盤の跡だと思う。グーグルアースでこの付近を見ると、最初の家からこの家に進むに連れ、敷地がだんだん狭くなっていく様子がわかる。下り勾配になっていて、だんだん築堤が狭まっていたのだろう。

安芸線
 右手のピンク色の建物は保育所。南進してきた安芸線はこの保育所の北東の隅から敷地に入り、今度は東へ進路を変えながら南東の角へ出てくる。

安芸線
 保育所の南に小川が流れているが、橋の痕跡はなかった。だから、道路が跡地なのか、その横の住居の建つ位置がそれなのか、判断に迷う。今のところ、この道路が路盤だとは思っているが。(追記。保育所の南東の橋と前後の道路十数メートルは安芸線の路盤の跡だったようだ)

安芸線
 川を越えるとそこは病院の駐車場になっている。敷地の一部が弧を描いており、路盤の跡なのだとわかる。訂正。病院の駐車場が路盤だったのではなく、それに接する土地が安芸線の路盤だったようだ。


安芸線
2012年から再調査を始めたのでその分について赤字で示す。後免町駅の北西の外れに来た。写真は後免駅方を写す。路盤は畑と駐車場に変わっている。遠方に赤い屋根の家があるが、その家の右隣の家は、敷地が路盤に重なっている。訂正。どの家も微妙に路盤を外して建っている。これも訂正。病院の駐車場の隣の三角系の敷地の民家は安芸線の路盤に建っているようだ。

安芸線
 後免町駅の敷地の北西の境には用水路が走っているが、線路が敷かれていた所には、橋台だった出っ張りが残っている。

安芸線
 長さから言ってIビームを橋にしていたのだろう。固定していたボルトらしきものも残っている。

安芸線
  同じ場所から旧後免町駅構内。駅全体が曲線を描いていた。後免駅乗り入れまではここが始点だった。また、開業当時はこの駅が後免駅を名乗っていた。国鉄開通後の少しの期間、後免駅が2つ存在している状態だったが、後免駅乗り入れを機に後免町駅へ改称している。あとから出来た国鉄に名前を譲らざるを得なかったのはお上に対する遠慮か強権か。左奥の高架上にはくろ鉄の後免町駅が見える。また右手には軌道線の後免町電停が見える。停車中の電車は600型のようだ。現在の停留所は当時の位置から、北へ数メートルだが前進している。
 なお、軌道線も安芸線開通後にこの場所まで延伸してきたものである。元々の終点は今で言う後免東町電停だった。延伸の際、旧後免町電停は後免東町通電停に改称し、新しい停留所に後免町駅前電停と名づけたため、後免町の名前は一度消滅したが、安芸線廃止後に後免町駅前電停を後免町電停に戻したため、後免町の名が復活した。くろ鉄開通後、後免町駅前に再度改称するかと思ったが、そうならなかったため土電はずっとこの名前で行くようだ。この界隈、鉄道は延伸と改称を繰り返しており、理解するまでややこしい。 右端に写る白い鉄筋の建物は歯科医院。安芸線現役当時から残る建物で、当時の写真と見比べると位置の特定に役立つ。


安芸線
 
 ちなみにであるが、橋台の位置から線形を推測すると、歯科医院と路盤の間に隙間がある事に気がつく。写真の場所がそうであるが、ここにはかつて、農協だか生協だかの購買があったそうだ。偶然話しかけたご主人が土電のOBで、色々と情報を得ることができた。

安芸線
 ここが現在、くろ鉄の後免町である。
土電の後免町とは目と鼻の先であるが、当時は当然軌道線と寄り添っていたわけで、それを考えるとこの写真を撮るために立っている場所が安芸線本線のホームがあった場所と思われる。
 現後免町駅は安芸線時代の位置から東北東へ移動している。

安芸線
 
後免町駅ホームから旧後免町駅構内を見る。灰色の部分が大体駅構内だった。

安芸線
 同じく安芸方面。年金事務所の東側である。現在は宅地になっているが、当時この付近に車両工場があった。

安芸線
 かつて軌道線と安芸線を繋いでいたレールが、比較的近年まで残っていた。残念ながら待合室とコンビニエンスストアの新築によって失われてしまった。撮影当時もすでに工事が進んでおり、大半がなくなっていた。

安芸線
  現在の様子。

安芸線
 土佐電鉄の後免町には「安芸線電化開通記念碑」が残されている。何やら外人の名前が彫ってある。そういえばその当時はGHQとかいう団体がいたかな。
 
 民事部というのはGHQの内部組織であり、終戦直後の日本の民主化政策の中心的役割を担った組織である。当時は占領下にあり、何をするにもGHQにお伺いを立てなくてはならなかった。そうでなくともあらゆる物が不足し、粗悪だった時代だった。しかし、高知民政部の部長を務めていたアクセルソン中佐の助力により、GHQからの緊急資材割当を受けることが出来、戦後わずか三年という混乱期に電化工事を完遂している。昭和二十四年十一月の高知民事部の廃止によって中佐が高知を去ることになり、沿線学校の児童らの発案で中佐の功績を称えるこの記念碑が建造された。英文のほうが目立つように書かれているのは、単に日本が占領下にあったせいではなく、上記のような経緯があったからのようだ。除幕式は十二月三日、中佐や県知事らを招き、後免町駅前広場で盛大に行われた。当時の写真を見ると、昔は人の背丈ほどもある大きな台座に設置されていた。現在記念碑が置かれている場所は安芸線の路盤だった場所である。後ろに立つ建物は年金事務所。これも安芸線の路盤上に立っている。全文を以下に書き出した。また、左の画像をクリックすると大きな画像を表示する(別窓)。

IN COMMEMORATION OF THE OPENING
OF THE ELECTRIFIED AKI LINE.

 
ELECTRIFICATION WORK ON THE AKI LINE WHICH HAD BEEN OUR LONG
CHERISHED DESIRE WAS COMMENCED IN NOVEMBER 1948 AND COMPLETED IN
JULY THIS YEAR. THE RAPID COMPLETION OF THIS WORK WAS DUE TO THE COR-
DIAL ASSISTANCE OF LT-COL,OSCAR A AXELSON CHIEF OF THE KOCHI CIVIL
AFFAIRS TEAM. TO OUR GREAT JOY. IT HAS NOT ONLY PROMOTED THE WEL-
FARE OF THE PEOPLE ALONG THE LINE HAS MADE A GREAT CONTRIBUTION
TO THE CULTIVATION OF FRIENDLY RELATIONS BETWEEN AMERICA AND JAPAN
THE PUPILS AND STUDENTS OF THE TOWNS AND VILLAGES CONCERNED HAVE
DECIDED TO HAVE THESE WORDS CARVED HERE IN COMMEMORATION OF THE
DISTINGUISHED MERIT OF LT.-COL.OSCAR A AXELSON TO EXPRESS THEIR
MOST HEARTFELT AND EVERLASTING THANKS.
   THIS MEMORIAL IS PLACED HERE BY THE PUPILS AND STUDENTS OF
THE TOWNS AND VILLAGES CONCERNED. NOVEMBER 30,1949.
      SHIGERU YOSHIDA. The prime minister.
 
安藝線電化開通記念碑
多年宿望せる安藝線電化工事は昭和二十三年十一月工を起し本年
七月之を完成した此の工事が斯くも急速に竣工したのは是れ全く
高知民事部長アクセルソン中佐の懇切なる御援助の賜物にして沿線
住民の福祉頗る多く日米兩國修交の上にも亦絶大の貢献を爲した
のは吾々の最も欣快とする所である茲に関係町村各學校生徒相謀
り先生の功績を刻して永遠に感謝感恩の誠意を表わす
昭和二十四年十一月三十日 関係町村學校生徒建之
  内閣總理大臣 吉田茂 書
 
 

MENU  其の二へ