伊尾木林道西の川線【前編】


 伊尾木林道には多数の支線があるが、この西の川線はとりわけ謎が多い。「森の轍」でも詳細は不明となっており、林野庁のサイトで公開されている森林鉄道の路線データ(H28.1.31)でも、路線名以外の情報が全て抜け落ちているのが分かる。もっとも、一切の情報が残っていないのかと言うとそうではなく、後に四国森林管理局へ赴き林道台帳を閲覧したところ、古い台帳にいくらかの情報が残っているのを発見した。ただ、得られたのは敷設が昭和3〜14年で廃止が同10年という、謎のスペックだったのだが。敷設の時期に11年もの幅があるのに、廃止年を昭和10年と断定し得るのはなぜだろうか。路線の運営に関わった職員なら知っているかもしれないが、戦前に廃止されたというデータが正しいのなら、それを知るのは難しいだろう。とにかく、西の川沿いの何処かに敷かれていたという情報しかなかったわけで、痕跡を見つけては先に進むという手段を取るしかなかった。しかしこの日の自分はツイていたようだ。様々な痕跡を見つけることができた。


うららかな日差しも見られるようになった4月の某日、伊尾木へと向かった。西の川線があったのは、伊尾木ダムのダム湖に注ぐ、西の川の川沿いである。伊尾木線の調査からは5年ぶりの訪問である。美舞橋からダム湖を眺めると、かつての林鉄鉄橋が変わらぬ佇まいを見せていた。加勝谷橋である。しかし周辺の護岸や斜面に崩落の跡が見える。2014年の大雨による被害だろうか。正面にV字に切れ込んでいるのが軌道が敷かれていた西の川だ。伊尾木川と真正面にぶつかりあうように合流している。ダム湖がなければ流れがぶつかりあう激しい渓流の風景があったかもしれない。

 

 伊尾木線と西の川線の分岐は、鉄橋を渡ってすぐのところにあったと思われる。しかし、西の川線を上書きするように車道林道が建設されており、分岐地点はもちろん、伊尾木線の痕跡でさえこの部分からは消え去っている。美舞橋の上から北の斜面を見ると、木々の向こうにうっすらラインが透けて見える。車道林道だ。軌道時代と同じく西の川の名を冠している。伊尾木線と別れた西の川線は、少しの間伊尾木線と平行した後、ヘアピンカーブで向きを変え、西の川の谷間に入っていたはずだ。  


 美舞橋から戻り、西の川林道に立つ(車は林道入口に停車した)。ご覧のように走りやすそうなフラットダートが伸びている。路面に雑草はなく、現役で作業に使われているのかもしれない。名前からしても立地からしても、この車道が西の川線の後継路線に当たるのだろう。一般車は2キロ先までは乗り入れることができるが、それより先はチェーンで塞がれ進入することは出来ない。


 そして、この林道を少し進むと、早速らしきものが現れる。車道より一段登ったところ、小さな木箱が見えると思う。これはミツバチの巣箱で、田舎では斜面にこういったものが置かれているのをよく目にする。これが置かれているところ、平場になっているが、車道に対して逆の勾配になっている。そう、おそらく伊尾木線と分かれて徐々に標高を上げていく西の川線の路盤だろう。路盤の幅が、軌道を敷くにはいささか狭いが、車道化の際に削られたと考えられる。


 この平場はあまり長く辿っていくことは出来ない。すぐに斜面に当たり途切れてしまう。しかしそこで左を見ると、一段上にも平場がのこっている。右に進むと同じような巣箱が二つ現れ、そこもまた行き止まりとなって斜面に消え落ちている。



 ここはヘアピンの跡地だったはずだ。下の林道はこの部分だけ道幅が広く、ダンプカーでも何台か駐車できそうなほど。ヘアピンを作るにも十分な面積を確保できただろう。写真にトラスが写っているが、ここは美舞橋の正面すぐ左である。



 上段に残る平場は林鉄跡らしく、緩やかな勾配が続いている。



 上段から下段を見る。木々の後ろに隠れているが、はるか先の湖面上には加勝谷橋も見える。


 そしてこの上段の軌道跡も、長くは辿ることが出来ない。まもなく渓流と交差し、橋台しか残されていないからだ。視線をその奥に向けると、どうやら対岸の路面は流れてきた土砂に埋まり、斜面に戻っているようだ。無理して向こうに行っても意味が無いと言ったほうが正しい。


 この橋台は車道からも間近に見える。地形に変化のあるところには大抵何らかの痕跡が残っているものである。この橋台も、初めてここに来たときには真っ先に目に入った。この車道を最初に訪れたのは2010年末頃、伊尾木線の調査の途中だったと記憶している。伊尾木線の調査の途中に、付近に支線のあった林道にはたいてい入り込んでいる。ここもそんな一つだった。


 橋台を過ぎたあと、軌道の痕跡は急速に薄れてゆく。車道が急速に高度を上げてきており、路体を飲み込んでしまうのだ。ところどころ石積みが見られるところもあるが、まもなくそれらも無くなってしまう。




 暫く林道を進むと、やがてトンネルが現れる。扁額には「西の川第一隧道」とある。それほど長いトンネルではなく、坑口から射す光で内部は明るい。銘板がなく竣工日がわからないが、トンネルの見た目からはそう昔でもないように思える。


 軌道時代はトンネルはなかったようで、平場が川べりに残っている。トンネルが短いので、残っている平場の長さもそれなりである。ほんの一分か二分歩くとトンネルの向こう側へ出てくる。この間に特に見どころはない。第一隧道の扁額は終点側には掲げられていなかった。


 この位置からは次のトンネルも見えている。こちらには第二隧道と書かれていた。第一隧道と同じ作りだが、こちらの方がより延長が長いようだ。




 そして第二隧道の方にも、それを経由しない平場がガードレールの外に続いている。林道の路面よりも一段低く、車道化の際にかなり盛り土されていることが分かる。第一隧道と第二隧道の間はかなり勾配がキツく、盛り土の高さを引いても相当な勾配があるように思える。果たして機関車で引っ張ることができたのだろうか。あるいは手押しだったのか。



 第二隧道の横に残る軌道跡は、第一隧道のそれと比べていくらか距離が長い。右手の斜面は岩肌を削った、なかなかにワイルドな光景となっている。申し訳程度に廃線探索気分が味わえる。

 再び車道に帰る。その先には赤い吊橋のようなものが見えている。





 遠目に見て吊橋っぽいと感じて「吊橋のよう」と言ったが、近づいてみると本当に吊橋だった。そしてそれはどうやら軌道跡に架けられているようだ。ひと目見て、その不釣り合いさに疑問が浮かんだ。どうしてこんな所に吊橋があるのだろうと。小洒落た赤色に塗られたそれは、いかにもモダンな佇まいを見せており、まるでどこかの公園か観光地にでも設置されていそうな雰囲気を醸している。あるいはどっかの金持ちが庭にビオトープを作り、吊橋を架けてその上から水草や小魚を観察しているとか。



 見た目、かなりしっかりしていそうな作りだ。床版は木製である。作業用の吊橋ならば、こんなお洒落な造りにはしないのではないだろうか。だから最初は「こんな所に遊歩道?」と思ったほどだ。傷みが少なく、使用感も少ない。近年架けられたのではないかとも感じる。



 吊橋を渡ると、狭いながらも平地があり小さな建物なら作れそうなほどだが、そういったものは建ってはいない。なにかがあれば、そこへ行くために架けられた橋だと理解できるが、そのようなものは確認できなかった。なので、この吊橋が何のために存在しているのかは不明である。


 そして軌道は、すぐに西の川の支流を渡っていた。吊橋とはいくらも
離れていない。目と鼻の先、歩いて何歩といったレベルである。岸には
築堤と一体となった橋台が残っており、対岸にもそれと対となる橋台がある。

 起点側の橋台の上から終点側の橋台を見る。岩の上に乗っかっており、小さな作りとなっている。そしてその岩が動いてしまったのか、そうと分かる程度に傾いている。いつか崩壊してしまうかもしれない。だからというわけではないが、この上によじ登ることはしなかった。なぜなら、このすぐ先にも別の橋台が残っており、軌道跡は林道にトンボ返りしているからだ。その間の路盤は見える範囲で完結している。右の図のように、「なぜわざわざそう行ったの?」と言いたくなるような線形を描いている。




 こちらは起点側の橋台である。そしてここにはレールが一本落ちていた。相当に侵食されており、表面はまるで麩菓子を思わせるように凸凹している。軌道跡を歩くと、各地で様々な放置レールを見かけるが、状態は様々であり、現役時代から時が止まったかのように良い状態で残っているものあれば、このようにレールの形をしたサビに成り下がっているものある。


 足場が悪かったので、一旦林道に戻り、そこから向こう側の橋台を確認することにした。右岸側の橋台はきれいに残っているが、林道側の橋台は林道の開削により殆ど埋没している。




 この橋台以後の軌道跡は、林道に埋没してしまったらしく、しばらく顔を見せなくなる。つぶさに観察すれば、ひょっとしたら石積みぐらい探せるかもしれないが、その程度なら取り立てることもあるまい。

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