伊尾木林道西の川線【後編】




再び軌道の痕跡が現れるのは、この1.5Kという標識の場所からだ。この標識は林道の入口からの距離を表していると思われる。よその林道でも形は違えど似たようなものをよく目にする。



 そしてそこから対岸を見ると、橋台と築堤が残っているのを確認できる。全体的に苔むして角も崩れており、かなり風化してきているのが分かる。後に続く築堤は上流へ向けてカーブしている。まだまだ続きがあるようだ。



対岸に渡り林道を見る。大きく壊れて土台部分だけになっているものの、林道側にも橋台が残っているのを確認できた。



 こちらは進行方向。しかし、目の前で痕跡は途絶えていた。大小様々な石が転がり、倒木が折り重なり、さらに蔓状の植物が絡み合い、進むのにも難儀した。ここには地図に載っていない小さな谷川が流れていた。本当なら平場か築堤や橋台が残っていたはずだ。谷の水が大雨のときに鉄砲水となって、あったはずの築堤と橋台を破壊し尽くしてしまったのだろう。



 高巻き気味に通過する。途中で下流方向を見たのがこの写真だ。水が流れているにも拘らず、あまり深く削れていない。最近になって水が流れるようになったようにも見えるが、そうではなく、日々まとまった雨が降るたびに少しずつ地形を変えているのだろう。



 そこを通過して少し行くと、西の川に洗われる所に大きな橋台のような石積みが残っていた。桟橋になっていたのだろうか。そこから視線を前方に動かすと、その先に石積みの築堤のようなものが見えた。


 近づいてみると、それは弓なりに曲がっており、確かに築堤だと確信できた。その先端は西の川に向かっており、ここでまたしても林道側へ戻っていたようだ。



先端には橋台が残っている。岩の上に乗っているため崩れず残ったようだ。そしてそのために、かなりコンパクトな作りになっている。


 林道側を見る。ここにも不自然な石の集まりがある。恐らく、橋台の成れの果てだろう。左岸側の橋台は、ダム湖の上で見つけた一つを除き、ほぼ全滅状態であった。



 林道に戻り対岸を見ると、手前の岩に三つの穴が開いているのを見つけた。これは紛れも無く、方丈橋の橋脚を差し込んでいた穴だろう。今回見つけた中で、特に林鉄遺構らしい遺構だ。


 同じところから上流側を見る。かなり急な勾配で登っている。その先、前方に橋が架かっているのが見える。


この橋の上にチェーンが張られており、一般車はこれ以上の進入ができないようになっている。橋の先は広場になっており、簡素な小屋がいくつか建っており、それは今現在も使用されているような雰囲気が感じられる。この橋の上で、衝撃的な事実に気づいた。この橋には西の川橋という銘板が取り付けられていたのだが、それは「にしのかわ」ではなく「にしのこう」と読むらしい。ならば軌道も「にしのこうせん」と呼ばれていたのだろうか。なんだか語呂が悪いような気もするが。


 その後も軌道の痕跡を求め、なおも上流へ向かったが、橋を境に痕跡はぱったりと途絶えてしまった。西の川をいくらか遡ってみたが、軌道を敷くにはいささか貧弱な山道が川沿いに伸びているだけであった。冒頭で述べた通り、軌道がどこを通り、どこまで続いていたか、探索時には把握していなかった。だから、「果たしてこのまま進み続けて良いのだろうか」という思いにいたり、途中で引き返してしまった。

 それは結果的には正解であった。橋に戻り、下流方向を眺めていると、右岸に妙な地形を見つけた。

 これは路盤ではなかろうか。


 路盤っぽくはあるが、距離が短く、いまいち自信を持って路盤だと断言できないのが歯がゆい。しかし雰囲気的には、路盤の幅とか勾配とかぱっと見の印象だとかが森林軌道のイメージとぴったり合致している。これが正しければ、西の川橋のあったのと同じところに軌道の橋が掛かり、右岸に戻ってきていたということになる。起点からここまで2キロに満たないと思うが、その短い距離の間に何度も橋が架かっていた。伊尾木の他の支線にはない特徴だ。何か理由があるのだろうか。単純な地形の問題だけなのだろうか。

 途中、軽微な崩落の跡がある。もちろん、下の段も被害を受けている。


そして、痕跡はまたも途切れてしまった。そこは地点の谷川の上だ。谷の水で路体が削られてしまったのだろうか。これ以後、軌道の痕跡は完全に姿を現さなくなる。

 再び地点である。このまま軌道が下流方向に進んでいたとすると、この斜面に道筋があるはずだが、そのようなものは確認できなかった。


 ならば、上流側はどうだろうか。この近辺は傾斜がゆるく、ヘアピンがあってもかしくない地形だ。ただ、期待に反してそれっぽいものは見つけられなかった。しかし、可能性はなくはなさそうだ。と言うのも・・・・・


そこから少し進んだ斜面から愛しいゝレールさんが顔を出していた。そこはヘアピンカーブで折り返していたと仮定した場合に、路盤があったとすると実にしっくり来る位置だった。上の車道から遺棄されたものかもしれないが、車道からは中途半端に離れているし、そもそも埋まっているし、元からそこにあったと考えるのが自然ではないだろうか。(裏返っているのがそこはかとなく気掛かりだが)


 近くで見ると、長年土に埋まっていたようで、限界をとっくに通り越して末期的状況に陥っている。鉄ってこういう錆び方をするのね。と言うか、錆とは違う何かに侵されているように見える。

 そしてその先は小屋の建つ広場である。昔はここに事業所の建物があったのかもしれない。小屋の上にも石積みの残る斜面と若干の平場があり、建物が立っていたような痕跡が残っていた。

 以上が現地の調査で判明した西の川線の現状である。冒頭の通り、この探索後しばらく後に、自分は森林管理署に赴き、安芸署の林道台帳を閲覧した。西の川線の情報は残っていないというのが通説だったが、ほんのちょっと、わずかでも何か残っていないか、淡い期待を込めてであった。そして次のことが明らかになった。

・戦前の僅かな期間運用されていた
  冒頭で述べたとおりである。昭和初期に開削され、10年前後だけ利用されていた。

・路線図
 基本的に台帳には地図が添付されている。それによると、ルートは現地調査で判明した通りだった。ただ、気になる終点だが、これはE地点付近がそうだったようだ。最後、ヘアピンで折り返し、小屋の建つ広場へ向かっていたという予想はどうやら外れであったようだ。台帳にも載らない、短期に利用された作業線という可能性はあるが、西の川線についてはこれで調査完了としたいと思う。   

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