伊尾木林道小川線跡8【終】





あとは消化試合である。終点までは700m強ほどあると思われる。急げばちょうど終わりそうだ。

 インクライン上の広場を出、切り通しを抜けた。切り通しは複線幅があったようだが、山手が少し崩落していた。そこを越えると、ネットが上部軌道まで続いていた。このネットがかなりの曲者で、強くテンションが掛かっていて、隙間に体をねじ込むのがやっとだった。


 ネットを通過するとすぐに森も抜けた。杉の幼木が植わっている。立入禁止とは書かれていないが、念のためこれらの木には触れないよう気をつけて進んだ。


 下から見上げた景色も今は目線の高さだ。だが、先ほど日当たりだった斜面がもう日陰に入っている。急速に日没が迫っている。


 途中、軽く崩落を起こしているところがあった。撮影方向は逆になっている。下から見上げた時、白く見える部分があったが、ここだ。思ったほど距離を進めていない。


 理由は日当たりの良さからくる藪化だ。こういう日当たりの良い所は、棘のある植物のオンパレードだ。引っ掻かれ、絡め取られ、上着は軽いかぎ裂きが無数にできてしまった。


痛みをこらえてどうにか植樹帯を抜け出し、ネットの外へ脱出した。


 ネットは軌道沿いにしばらく続いている。結構強固な網なので、ところどころ不安定な場所で手がかりに役立った。


やがて少し開けた所に出た。もう既に、どこが終点でもおかしくないエリアに入っている。何らかの施設か機回しのための複線に入ったのだろうか。時刻は16時50分。車道に脱出する時間も考えなくてはならないため、歩ける時間はあと10分が限界だ。




 施設の存在を裏付けるものはないが、古びた石柱が本来とは違う角度で存在していた。安芸小林区署と旧字体で書かれている。探索時は予備知識がなく、そもそもゆっくり考える暇がなかったので、現地ではただ写真を撮影しただけで通り過ぎた。ただ、軌道の開設が戦後のことなので、この標柱もその頃に建てられたものだろうと、この時は考えた。また以下の画像の通り、別の面には「常四二、三月」という日付と読み取れる一行があり、この常という字は"ジョウ"→昭和の"ショウ"を意味するのではないかと考えた。



帰宅後に画像から読み取れた内容は、安芸小林区署以外では以下の通り。

北畝 282間 谷180間 東畝 63間 西南畝610間

スギ           55040
ヒノキ 面積196500 23560本

常四二、三月 新植

内容からすると、これらは植樹標のようだ。  帰宅後に小林区署について調べてみると、◯◯林区署とう呼び方は、明治19年から大正13年までの大小林区制度によるもので、小川線の建設された昭和の時代はよく知られている安芸営林署と呼ばれていた。つまるところ、この石柱は軌道との直接の関係はないというわけである。この頃に植えた苗木が育って大きくなったものが軌道により運びだされた可能性はある。常四二が意味することは結局わからなかった。何かの年号の代わりなのか、他の意味があるのか。

   


 石柱のあった場所から後方を写した。ここだけ若干広いのが分かる。だが、本当に絶対複線になっていたという確証はない。


 石柱の先は、恐らくこの路線最後と思われる橋台がある。ここも先端が崩壊し、断面図を晒している。


 谷底から見上げる橋台。周囲はあからさまに暗くなり始め、手ブレさせないように写真を取るのが難しくなってきた。


 終点側より、橋台と一体となった築堤を写したもの。この築堤には・・・・


 転轍機のノーズ(または轍叉)と呼ばれる部品が落ちていた。これはすなわち、軌道が川を渡ってすぐに分岐していたことを意味する。先日紹介した久々場山線にも終点が複線になっていたような痕跡があった(ちなみに探索自体は小川線が先)。どうやら、この旅の終点にたどり着いたようだった。

 そして次が軌道跡で撮影した最後の写真だ。この写真で17時ジャストとなり、タイムアップと相成った。これより奥は見ていない。ノーズは二つ残っていたため、ひょっとすると石柱の広場が複線になっていたのかもしれないし、この奥で合流していたのかもしれない。その場合、100mほど続きが残っている可能性もあるが、それは来シーズンの課題となった。





 ここからは帰り道の話なので読まなくても問題ない。
 一旦石柱の広場に戻り、そこから支流沿いに伸びる杣道を歩く。地図にないこの道はプレ調査の時に見つけたもので、途中に砂防ダムを見ながら上の車道まで続いているはずだ。だが、森のなかの夕暮れは早い。ストロボ無しではこんなにも暗い。ここでヘッドライトを装着し、夕闇に備えた。しかし記憶違いか、砂防ダムが現れない。道筋も途中で見失ってしまった。痛恨のミスである。日没もどんどん迫るし、無理にトレースせず、斜面を直登する作戦に切り替えた。


教訓:プレ調査は探索の直前にやらないとあまり意味が無い。


10分ほどで車道に脱出できた。封を切らずに残しておいたとっておきの緑茶で体を労った。まだ幾分明るかったが、あと30分もしないうちに真っ暗だろう。ここから車道の入口のゲートまでは2.5キロほどの道のりだ。この車道が小川線終点に至る唯一の道である。路線名は河又林道といい、小川の名は冠していないが、立地的に事実上の小川線の後継路線である。

 10分少々歩くと、周囲は大分暗くなった。途中、簡素なプレハブ小屋が建っていた。綺麗に保たれているので今なお現役なのだろう。これが軌道跡で見た事務所に変わる施設になるのだろう。道路が整備されて泊まる必要が無いのか、規模は大幅に小さい。


 フラッシュがないとこんな暗さ。街灯もなく懐中電灯なしには行動は不能だ。


 遥か彼方に安芸の明かりが見える。この距離を歩いてきたんだな・・・・・。


時刻は18時ちょうど。車道に抜けて約40分でようやく河又林道の入口のゲートにたどり着いた。本来ならこのゲート前にバイクを待機させる予定だったが、冒頭で述べた通り、更に3キロほど歩きが加わる。


 まさかのダブルロック。おイタをするひとが多いんだろうな。


 ゲートを通過して猿押林道に入った。車両通行止めなので、人っ子一人通りかからない。50分ほど歩くと、林道を塞ぐオレンジ色の巨体が見えてきた。


 複数の重機が作業にあたっているようだ。


 工事現場。路面を掘り返して暗渠でも埋めるのだろうか。全面通行止めも納得の大工事だった。早朝にちょっとゲートをずらしてとかいうのが無理なやつ。


 工事現場からバイクの待機場所までは500mほどで、到着したのは19時10分だった。この単管バリケードがこの冒険のゴールテープ(切れないけど)となった。ここは猿押林道の始点でもあり、これより安芸側は舗装林道の奥栗一谷林道となる。ここからバイクを駆り、軽トラを駐めた花地区までは更に35分であった。

 こうして12時間オーバーの大冒険は幕を閉じた。思えばなかなか凄いところだった。廃線跡で見つけると嬉しいあらゆるものが揃っていた気がする。橋梁やトンネルといった基本的なものは勿論、事業所跡やつづら折れ、ループ線やインクラインに至るまで、あらゆるものを発見できた。伊尾木線に残っていた残置レールが小川線にもあれば、廃軌道のテンプレートになりそうな好条件が揃っている。探索は勿論、レポートを書いていてその時のことを思い出すだけでも楽しい路線だ。誰でも気軽にという訳にはいかないかもしれないが、脚に自信があるならオススメしたい路線だ。

 GPSの記録をグラフ化したものである。軌道跡の状態や体力でペースは変わるので、あくまで参考値である。また、事業所跡を探検したり橋のない谷を迂回したりしたため、車道に抜けるまでの距離が全体的に伸びている。後半以降、疲労が溜まったのか徐々にペースが下がっている。素人にとって一日に15キロという距離は、状態の良い小川線だから通過できたギリギリのラインだったようだ。今回は試験的にGPSログを公開してみようと思う。 置き場所。  


 


前ページ  お品書き