伊尾木林道小川線跡7




↓◯さ行がねがをパクリ参考にして書き方を変えてみたよ?↓


 30分前に見た景色を再び。軌道はこの切り通しの手前の上を通過していたようだ。途中ウロウロしたり、地形図とにらめっこしたりしているが、最初からネタがわかっていれば、これほど時間はかからないのだろう。


 ここかあ・・・・。最初怪しいと思ったんだよなぁ・・・。

 ・・・・・・・。



ホントですよ?



 橋台が見当たらないのは、天然の岩肌を利用していたためにハナから存在していなかったからだ。また、森の轍で公開されていた路線図にもこのループ線は反映されておらず、「直進していたはず」という先入観に惑わされ、上段の存在に思い至らなかったようだ。
 念の為に言っておくが、路線図のミスは致し方ないことである。森の轍で公開されている資料は林道台帳を元に制作されているが、この台帳がまた見難いのである。自分も何度か現物を見たことがあるが、つくられた時期が古く大雑把な手書きで作られているので、現代の地図にその細部を再現するには、高い想像力と直感力が求められるのだ。
 ちなみに現在ではこの部分は修正済みである。


 上段の軌道跡から橋梁跡を見る。ここからまっすぐ橋がかかっていたはずだが、植生により、起点側の橋脚まで見通しにくい。終点側に橋脚がないのは、切り通しの壁に主脚を立てていたためだろう。下段との間に生み出された高低差は3、4メーターといったところだ。わざわざループにするほど効果がないような気がするが、気のせいだろうか。


 とはいえ、事前情報のない遺構を発見し、嬉しくなかったといえば嘘になるし、とても幸福な気持ちに浸っている。もちろん探索当時も予想外のこの発見を純粋に喜んだ。しかし、このループは実際はもっとレアで価値があるものだったようだ。

「そういえば、森林鉄道でループというのがピンと来ないな」

 というようなことを、帰宅後に思いついた。この疑問をgoogleで解決しようとしたが、過去の発見例がほとんどヒットしなかった。精々「どこぞの山奥にあったらしい」という不確かな又聞き情報か、何故か個人の庭園鉄道の話ばかりだった。そこで、同好の士の大勢集まるヨッキれん氏の運営するサイト"山さ行がねが"の掲示板でこの疑問をぶつけてみた。するとやはり、作業線といったごく低規格の路線を除き、林鉄でループが採用されることは非常に稀な例であるらしいことがわかった。その時寄せられた考察をまとめると以下のようになる。

●通常より予算がかかる
  -360度ループは線路と交差する構造上、必ず1ヵ所はトンネルか橋が必要になり、地べたにレールを引くより予算がかさんでしまう
●割と無茶な線形を許容できる
  -軽便鉄道は規格が低く、普通鉄道にはない急勾配や急曲線でも配置できる。それで上記の理由により、九十九折れを多く採用してしまう
  -九十九折れで間に合わないような急斜面の場合、インクラインを設置する場合が多い
●そもそも普通鉄道や道路においても存在がマイナーである
  -言われてみると確かにそうだ。ループ線は地形的にも設置条件が厳しいため、土木的に見てループ線が採用されることが稀なようだ

 ではなぜ小川線ではループ線が採用されたのだろうか。資料がないためこれだという確定的なことはわからないが、いくつかループ線の採用に追い風になったと思われる特徴がある。まずは地形である。周辺は彫刻刀で削ったような深い谷底に位置している。つづら折れを設置するにはいささか斜面が急だ。ヘアピンカーブの設置には川の両岸を使った線形にする必要があるだろう。ならば、ループ線にしてもさほど工期と経費は変わらないのではないだろうか。また、小川線の建設は昭和二十年頃に始まっている。戦後の復興資材の供給のため、当時は都市部を中心に木材の需要が爆発的に増大した。小川線はそんなさなかに建設された路線である。多少建設にコストが掛かっても、それをペイできる売上が期待できたのではないだろうか。また、戦争という抑圧から開放され、精神的には余裕が出てくる頃だ。普段できなかったことをやってみたいという気持ちになったのかもしれない。これらは自分の勝手な想像なので、あくまでも参考までに。

上段の軌道はやけに緑がかっている。下からは上段の存在に気づけなかったが、上から見ると一目瞭然だった。






  しばらく行くと、「ハア?」と声を上げた橋台に出た。あのとき、周りに人がいなくてよかったと思う。赤っ恥になるところだった。もっとも、ここから半径5キロ以内に人間はいないだろうし、その心配は杞憂だが。ともかくこれで、ここがループ構造になっていることが確定した。橋がないのでここも沢渡りとなる。突き刺さったレールを下に見ながら沢を渡った。さっきから同じ所を行ったり来たりしている気がする。このレールの正体が謎だ。崖崩れかなんかでずり落ちてきたものだろうか? 発掘してみたい気もするが、ここに来るまでが大変だ。

予想外の発見にしばしほくほく顔であったが、いつまでも締まらない顔をしているわけにはいかない。時刻は15時30分を迎えた。自分が目標に掲げた終了時刻は16時。日没時間から考えられる限界の時刻は17時。地形図から読み取れる終点までの距離は、直線距離で700mを残している。山での移動時間は平地の同じ距離より数倍に伸びることがある。時間的余裕は少ない。前半かなり飛ばし気味のペースで歩いて正解だったなと思った。


 川を渡った軌道は少しの直線を進んだあと、更に別の支流と交わっている。地形図からも、広場が二つの谷に挟まれていることが分かる。橋台は原型を保っているように見えるが、上流側の角が崩壊しており、余命はあまり長くなさそうだ。


 軌道は一瞬だけ森を出て、ご覧のような斜面に出た。古い土砂崩れの跡だろう。Google Earthの衛星画像でもここだけ禿げているのがわかる。

 軌道は再び森のなかに入り、三回目となる小川川を渡る。ここの橋台は幅が広く、複線幅を確保できそうだ。小川線は基本的に左岸を通っており、小川川の本流を渡ったのはいずれもヘアピンやループ線など、標高を稼ぐためだけであった。ここは三ヶ所目だが、ここもやはりそうだったことがこの後すぐに判明する。


 起点側も幅が広くなっており、少し手前から幅が広くなっていたようだ。
 ところで先程から妙に引っかかっていることがる。やけに川が近いという点だ。冒頭で述べたとおり、以前にプレ調査と称して終点付近を訪問している。





上がその時撮影した写真だ。川が近くなく、ずっと標高が高い印象を受ける。
また、近年伐採が行われたようで、新たな若木が植えられており、かなり景色が明るく、現在地の情景とは大きく異る。
GPSの表示では、まだ終点まで数百メートルを残している。この先大きく景色を変えるのだろうか。

 


 右岸に移った軌道は相変わらず複線幅を確保していたようで、そこそこ広い広場が残っている。ここも過去に伐採が行われたのか、たくさんの丸太が斜面にもたれている。
ここには曲がった長いレールが放置されていた。レールの反り具合からすると、ここで使われていたものと見ていいだろう。見つかったのは一本だけで、対になるレールは見当たらなかった。どこへ消えたのだろう。




 そして、物語はクライマックスへ突入する。右岸へ渡って少し進んだ軌道はすぐさま左岸へ舞い戻っている。川には橋台が残り、終点側のものは崩落が進んで痛々しい断面図を晒している。

 起点側の橋台は健在であり、対照をなしている。

そしてこの景色は見覚えがある。ひろぽん氏がブログで紹介した最後の景色だ。氏はここで軌道をロストし、撤退している。しかし、橋台が残っている以上、先へ続く路盤があると考えるのが必然であり、実際にそうだったはずだ。案外簡単に"続き"が見つかるだろう。正直言うと、この時は高をくくっていた。



 実際のところ、上流側に軌道を伸ばせそうな平場は認められなかった。

ならば下流方向はどうだろう。一旦下流方向へ戻ってまたヘアピンカーブで戻ってくるのではないかと考えた。しかしそのような痕跡は発見できなかった。

まさかの第二ループかとも思ったが、そのような痕跡もない。ここで割りと本気で道に迷ってしまった。

・・・・・あ、ひょっとするとまずい?

 

 内心、かなり焦っている。残り一時間しかないのに道に迷っている。あっちをウロウロ、こっちをウロウロしたが、一向に突破口は見つからない。 と言っても、左岸側の斜面を直登すれば車道に出られるはずなので、大げさに心配する必要はない。ただ、ここまでせっかく順調に来ていたのに、打ち切りエンドと言う事態はできれば避けたい。
やがて足を止めて10分が経過したが、まだ針路を決めかねていた。どうも踏破に執着するあまり、冷静な判断力を鈍らせている気がする。少し落ち着こう。そうだ、こういう時こそ地形図の確認だ。ここで、この日二回目となる地形図の確認を行った。この日地形図を確認したのは、ループ線の手前と、ここの二回だけ。それだけこの小川線の探索は順調だった。いかに良い状態で軌道跡が残っていたかが伺えるだろう。


 。これが森の轍で公開されている路線図だが、結果はまさかの直進、すなわち斜面に対して直角に進んでいた。一瞬、本気で意味がわからなかった。

こんな斜面の
どこに
鉄道が走っていたと
いうのかね?



しばしこの急斜面に見とれていた。まさかトンネルがあったわけじゃなさそうだし、う〜ん。
斜面は急だが滑らかだ。橋台の上は少し反り上がっており、スキージャンプ台を思わせる。まるで均したみたいな坂だ。





・・・・均した?



ああそうか、繋がった。鉄道は総じて勾配に弱いと言われている。
しかし、必殺技がないでもない。
自らの動力で登坂することを諦め、外部の力に頼った、反則的禁じ手な方法がある。



こういうの↓







 参考資料:屋島ケーブル

 これは旅客用のもので、林鉄遺構ではないが、理屈は同じである(まともなインクラインの写真がなかった)。すなわち、車体に接続したワイヤーをウインチで巻き上げ、車両を引き上げたり下ろしていたのである。林鉄のインクラインにもいろいろあり、途中に交換設備を設けた単線のもの、複線のもの、真ん中のレールを上下で共用した両者の合いの子とも言える3線式というものもある。インクラインの下には、引っ張ってきた機関車を入れ替えたり、トロッコの整理のために複線になっている部分があるのが基本だ。手前の路盤や橋台が幅広だったのもこのためだろう。



 うおお、滑る滑る!

 どうもこの斜面を直登しようというのは無謀だったらしい。少なくとも九時間歩き続けたうえで挑戦するような坂ではなかった。疲労のあまり膝が笑っている。足を上げても上がらずプルプル震えている。そしてこの坂は、進むほどに勾配が急になるのだ。1/4も登った頃には、進退窮まる状況に陥った。少しでも気を抜くと体重に負けて斜面をずり落ちてゆく。ジャンプ台というか、蟻地獄と言ったほうがいい。ずり落ちても捕食されることはないが、悲しいお笑い芸人みたいに冬の小川川にダイブすることになりそうだ。




 しかし、希望の光が差し込んだ。。インクラインを横切る杣道があったのである。ひょっとすると、上部の軌道と下部の軌道をつなぐ歩道ではないだろうか。これだけ勾配がきついと、さすがにトロに便乗するような真似はしなかったと思うのだ。単純に危ないし。乗れたとしても、運転係がいないとインクラインは動かないのだから、運転係は乗れない。




 杣道は下流方向から来て上流方向に向かっている。この画像は下流方向を写している。



そしてこの写真からはインクラインがどのくらい急かが分かる。背後に写る木を見るに、この写真はほぼ水平に撮影出来ていると思う。斜面は画像のほぼ対角を貫いている。画像の比率は4対3だから、3/4=750/1000=750‰の勾配だ。角度に直すと約37度となる。実体験では45度を超えているんじゃないかと思ったが、数字にすると案外小さいな。


 日中の大半を過ごした軌道跡を一旦離れ、連絡通路と思しき杣道を歩く。しばらく行くと正面が明るくなり、森を抜けだした。プレ調査の時の植林地帯に入ったのだろう。行く手を塞ぐように強力なネットが張られているが、せっかく植えた若木の芽を、鹿などの害獣に食い荒らされないようにしているのだろう。とにかく、圧迫感を感じる谷底を抜け出し、明るい太陽の下に出たことで、少し気持ちが明るくなり、焦る気持ちも僅かに晴れた。



↓下から見る景色も悪くないな↓




 ずっと谷底を歩いていたので、ぱっと広がる景色は随分懐かしく思えた。そしてここからは目指す場所が見えている。正面の尾根のはるか上方に帰り道にする予定の車道が走り、その下に薄く伸びる線が小川線の上部軌道だ。

 

 杣道はネットに阻まれ、進むことができなくなった。その代わり、ネット沿いに続く踏跡を見つけたのでこれを登ることにした。この踏跡は伐採の時に作業員が踏み均した跡なのだろう。あまり使い込まれた感じがなく、歩きにくい。しばらくネット沿いを歩くと、踏み跡は森のなかに入った。そこは平地になっていた。そこで左を見ると・・・・・





やったぜ。


 切り通しの直前がインクラインの上端だったらしく、レベル区間と勾配の境界には橋台的な石積みの構造物が残っている。切り通しは通常の倍くらいの幅があり、ここも複線の待機場所になっていたようだ。

 そこから下を見下ろすと、今しがた見上げていた橋台の前が眼下に確認できた。こういう急な下り坂を見下ろすと、引きこまれそうというか、ふらふらするというか、足元がスカスカする感覚を覚える。こんな急勾配を、重たい丸太を縛り付けたトロッコが行き来していた情景。想像するとなんだかシュールだ。ここまでして木材を運んだ時代。ここまでしても採算が取れた時代。遠い昔のことだ。このインクライン跡は現在でも地表にはっきりと痕跡を残している。左のマップのベース地図を衛星画像に切り替え、拡大してみてほしい。はっきりとラインを確認できる。




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