西条市谷川沿いに残る軌道跡



 突然だが、国道194号線の内、西条市(愛媛県)内の実に8割の区間が森林軌道跡であるという。またその森林軌道も、はじまりは鉱山軌道だったという。その軌道は、大阪に本社を持つ日本窒素肥料株式会社が、千町(せんじょう)地区の千町鉱山から鉱石を運び出す目的で、大正8年から2年間をかけて作った馬車軌道であった。ルートは改良前の194号線と同じで、船形地区からしばらく右岸を走り、迫門橋で左岸に移り、少し上流に行った所で終点だった。そこには索道の発着場があって、千町鉱山の鉱石が川を跨いで降ろされていたという。

 千町鉱山の盛況は数年で終わり、早くも大正末には閉山することとなったが、その時軌道に目をつけたのが地元加茂の林業者たちである。加茂地区は林業の盛んな地域だったが、切り出した木材の運び出しは流材に頼っていた。水量が少ないと運び出しが出来ず、雨が降るまで(川の水が増える)までずっと川岸に積み上げているような状況だった。安定して運び出しが出来る軌道は喉から手が出るほど欲しかったのだろう。

 昭和2年の末、軌道の借り入れと延長を目的として加茂土工森林組合が結成された。組合長には当時の村長が自ら就任した。2年間の工事の末、軌道は川来須まで延長され、15.8キロの森林軌道が作り上げられた。昭和5年の春のことである。軌道の運営は芳しくなく、一時は軌道の使用料滞納を理由に、日本窒素の所有である船形八の川間の軌道を撤去されてしまう。これは大きな痛手だったが、地元の地権者らに負担金を捻出してもらうことでどうにか軌道を買い戻した。以降は比較的好調な業績で、昭和30年代初頭に車道転換されるまで活躍した。

 この事実を知ったのは「四国の鉄道廃線ハイキング」という本を読んだからだった。で、読んですぐさま興味を失った。なぜなら軌道は車道へと作り変えられ、遺構は残っていないとその本に書いてあったからだ。自分自身、国道194号線は過去に何度も通過しており、ほぼ全面改修が終わり、とても軌道の名残があるような雰囲気ではないことを知っていた。それで急速に興味を失っていった。
 それから月日が経ったある日、米国スタンフォード大学のwebにて、日本の旧版地形図を閲覧していたときのことだ。ふとこの軌道のことを思い出し、地形図でこの軌道がどのように描かれているのか気になった。そこで西条市の旧版地形図を開いてみたのだが、あることに気付いた。

 変な所に軌道が描かれている。

 この地形図は昭和3年測図昭和8年部分修正の1/50000西条からである。森林軌道が描かれていないので、谷川周辺は昭和3年測図のままなのだろう。軌道は迫門橋で谷川を渡っていたと伝わっているが、地図には迫門橋を素通りする軌道が描かれている。これは一体何なのだろう。しかもそれは車道とは違う場所だ。当時の姿のまま残されている可能性が高い。実に気になる。こうなると現状が気になって夜しか眠れなくなるのが自分の悲しい性である。

1.アプローチ

 2016年12月、西条市へと向かった。午前中に西条市図書館へ行き、何か情報でもないかと西条市史などを読んだが、特に収穫はなかった。いかんせん午前中だけでは時間不足だし、そんな簡単に出る情報なら今頃ネット上に溢れているだろう。早々に見切りをつけ、正午前には市内を出て八ノ川地区へ向かった。プレ調査で上流側から探索を行うことに決めていた。 八の川地区の新八之子谷橋を渡ると、右側の旧道筋が少し広くなっていたので、そこに車を止めた。国道に出ると、近くにせとうちバスの八之子谷橋バス停がある。橋とバス停の間の斜面を見ると、ブルで均したような急な下り坂があった。ここを歩いて下る。徒歩でも油断するとスッコケていきそうな猛烈な下り勾配なので心して歩く必要がある。道なりに行くと、やがて新八之子谷橋の下に水路橋がかかっている場所につく。これは、住友共同電力兎之山発電所へ通じる水路である。この手前から谷沿いに降りる獣道がある。これを辿っていくと谷川の河原まで降りられる。

 浅いところを選んで川を渡ると、ひしゃげた鉄枠や鉄塔の残骸のようなものが目につく。台風災害で上流から運ばれてきたのだろうか。川沿いの斜面は巨石が鎮座していたり猛ブッシュだったりで、取り付く島がない。目印でもつけておかないと、事前調査と同じ場所へ行くのも難しいものだ。登れそうなところを探して下流方向へ歩いていると、見事な石積みが現れた。紛れもない、軌道の路体だ。

2.AB間

 まず距離の短い上流側を探索することにした。A地点からすぐ上流側の尾根先まではかなり藪化していたが、尾根から先は比較的現役当時の痕跡を残している。

 しばらく行くと、軌道の下に平地が広がっていた。旧版地図には建物を現す記号があることから、集落跡であることがわかる。すると少しして、斜面の上方から山道が下りてくるのに気がつく。これは旧土佐街道であり、高知県との重要な交通路であった。街道は少しの間並走するが、やがて軌道と重なり両者は一体となる。地形図上では合流地点が軌道の終点となっている。合流点から先へも進んでみたが、基本的に激藪状態であり、土石流の跡もあって遺構を期待することもできなかった。その先は軌道跡ではないが、せっかくなので足を踏み入れてみた。写真はないが、集落跡の中心と思しき地点に半壊状態の小さなお宮が残っていた。そこを過ぎると道は川沿いの断崖の上に続いていて、急に途絶えていた。周囲を見ると、太いワイヤーロープが谷川に垂れていた。対岸に目をやると、道の続きと思しき平場を確認できた。どうやら地図上に描かれている橋が、実際には落橋しているようだ。

3.AC間

 A地点に戻り、今度は下流を目指す。AC間は短いが見どころはある。まず、川から上がってきたときに見た見事な石積みであるが、これは短いながらも築堤になっていた。直線的な道筋が必要とされる鉄道ならではだ。当初は地形図の誤植の可能性も考えていたが、その線は薄そうだ。

 その先には岩の割れ目を越える橋があったようだ。橋台の下の岩肌には不自然に穴が開いている。ここに橋脚を差し込んでいたようだ。

4.CD間

 一部藪化しているところがあったり、路体も半分崩れているなど危険箇所もある。しかし、平均してそこそこ良い状態である。



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