西条市谷川沿いに残る軌道跡2



5.DE間

 全体の中間地点であるD点を過ぎると、軌道跡はだんだんと荒れはじめる。植生が多くなり藪化している所が多く、路体の欠損も随所で発生している。E地点辺りまで来ると、木々の隙間から194号線の赤い橋が見えてくる。また対岸には旧国道のガードレールも見える。ここまでくると路体の欠損はひどいものとなり、回り道をしなくてはならない箇所が出始める。

6.EF間

 E地点から急速に状態が悪くなり、軌道跡に上がってもものの十数メートルで次の欠損に行き当たり、河原に降ろされるをF地点まで繰り返す。

 そんな中にも偶にまともな道が続くことがある。

7.FG間

 FG間の状態が最も悪く、国道の赤い橋が間近に迫ったところで道筋がなくなってしまう。

 十メートル以上に渡り路体がなくなっている。あるいは元は桟橋だったのかもしれないが、痕跡には気づかなかった。画像真ん中の木が一本生えている所からは路体が復活している。

 登りたいが、届かない。もうあと一歩なのだが・・・・。手を伸ばして最後に撮影した。岩がオーバーハングしている。後ろを見るとさっきいた所が見えた。そこもまた片洞門状になっている。

 ついに河原にも歩ける所がなくなったので、対岸へ渡った。先程の欠損箇所を見る。岩場だから剥がれやすかったのだろう。

 その後も所々はっきりとそれと分かる箇所がある。無理をすれば行けなくもなさそうだが、一個一個の距離が短く、ここから見ても特に何かがある雰囲気でもないし、対岸から眺めるだけで十分だろう。国道は軌道跡よりもかなり高所を通っており、少なくともこの時点では軌道跡を踏襲しているわけではないようだ。この点に最初は気付いていなかったので、プレ調査ではかなり苦労をした。橋台の横からまた路体が復活する。

 新迫門橋の橋上より、GからE地点まで見渡してた。軌道の部分だけ植生が少なく、軌道跡が浮き出ている。

8.GH間

 GH間の存在は当初は予想していなかった部分だ。考えてみれば、新迫門橋と迫門橋の間の国道は勾配が急なので、軌道跡は別にあると予想することもできたはずだった。橋台横の斜面は傾斜が比較的ゆるく、植生が豊富なので大して労せず軌道跡まで登れる。橋の下は橋台の巨大なコンクリート壁が立ちはだかり、路体はぷつんと途切れていた。また上の広場からの不法投棄で空き缶から家電製品に至るまでのゴミが散乱していた。

 しかし、平場ははっきり続いており、軌道跡としての状態は十分に良い。

 しかし、それも長くは続かず、今度こそ国道194号線に踏襲されて終了となる。

 こうして軌道跡の全貌と現状はほぼ明らかになった。しかし、謎は残った。冒頭の通り、軌道は迫門橋で谷川を渡っていた。ならば、橋を素通りしているこの軌道は何なのだろう。迫門橋を渡っていたという情報が間違いなんじゃ?とも思ったが、戦後間もないころに米軍が撮影した空中写真に、迫門橋を渡る軌道と千町鉱山(跡)から降りる索道っぽいものが写っているから、それはないようだ。また後述するが、迫門橋の橋台も発見している。そうすると、迫門橋から上流の軌道の用途が全くを持って想像できない。
 逆にだが、あの場所に軌道を引いたとして、何に使えるだろうか。不測の事態(索道の故障とか)に備えて別ルートを確保していたのだろうか? それはないだろう。ワザワザ上流側に遠回りする必要が無い。 土佐街道に接続されていたというのが案外ミソかもしれない。土佐街道は千町地区を通過しているが、千町地区が周囲よりも若干標高の高い斜面にあるため、街道はここで山を登って下りてをしている。川沿いの軌道ならアップダウンもなく通行が楽そうだ。地域の交通のの利便を図って土佐街道(A地点)に接続したのだろうか。
 何れにせよ80年近い昔の事である。明らかになることは恐らくないだろう。確実に言えるのは、かつてここに確かに軌道が存在した、ということである。

おまけ

 H地点から西条市内へ向けて数百メートル行くと、谷川に古いRC橋が架かっている。旧迫門橋である。本文中に何度も名前が出てくるが、これ自体は銘板によると昭和26年3月の架設である。軌道の完全撤去前だが、「えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10−西条市−」によると、昭和27年には河ヶ平(加茂郵便局の辺り)より下流側では軌道が撤去されていたというから、使われなかったかもしれない。あと何年もしない内に撤去される予定の軌道をワザワザ移設したかということである。ちなみに軌道用の橋台と思われるものは、下流側に左岸のみ残っているのを確認している。

 終点だった船形地区は現在も土場が空地になっている。日本窒素が建てた石碑があるらしいが、自分は未確認である。


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