佐喜浜林用軌道1

 山地が多く温暖で、降水量に恵まれた高知県では、県内各地に良質な木材を産出する山があった。佐喜浜もその一つである。時代により崎濱、先浜、佐貴浜、鷺濱など、表記に揺れがあるが、"サキハマ"は昔から知られた木材の山地だった。室戸市史によると、その歴史は短くても600年はあり、室町時代の文献「大乗院寺社雑事記」に、榑の産地として鷺浜が挙げられている。また文安二年に佐喜浜(前浜、先浜)船籍の船が、兵庫北関に木材を積んでいった記録がある。天正地検帳には、長宗我部元親治世下の佐喜浜に材木蔵があったことが記されている。佐喜浜郷土史には、野根山の杉が京都の大仏殿や、禁裡造営に献上されたことや、山内時代の初期に淀君発願の大仏殿に東灘の木材が出されたと記述がある。山内藩政の時代、米と材木は藩の財政の二大柱だった。

 材木の搬出には、長年流送が用いられていた。もちろん佐喜浜に限った話ではなく、ロクな輸送手段がなかった昔は、どこでも流送は普遍的に用いられていた。佐喜浜川はかつて、川幅が狭くて水深が深く、流送に適していた。その様相が一変したのが、通称「加奈木のつえ」と呼ばれる大崩落である。宝永地震が引き金とされるこの大崩落は、佐喜浜川の上流部、装束峠の南東すぐ近くで発生し、850万m3の土砂が崩壊し、谷を埋めたという。それは長い年月をかけて下流へ流され、河床を上昇させ、農地を埋没させ、洪水を引き起こした。佐喜浜川では、かなりの上流部でも広い河原が見られるはこのためである。やがて海まで到達した土砂は、波の作用で河口周囲に広がっっていき、海岸を荒廃させた。佐喜浜港では水深が浅くなり、船の出入りに支障を来すなど、地域経済と生活に多大な影響をもたらした。このため営林署が主体となり、復旧事業が始められた。大正六年から崩壊地を復旧し植生を回復させる治山事業が始まり、一旦中断を挟んだ後、昭和七年から砂防堰堤を整備し土砂の流出を防ぐ砂防事業が始まった。

 軌道が開通したのも昭和七年である。何やら関係がありそうである。たぶん、堰堤で川をせき止めると流送ができなくなるので、軌道による搬出に切り替えたのではないかと思う。もっとも、明記された資料がないので断言はできないが。そもそも流送は、危険を伴う作業だし、需要が増えても急に搬出量を増やすことは難しく、時代が下るにつれて徐々に廃れていったものだ。なので、佐喜浜の流送も単に自然に淘汰されたもので、流送が廃止になったので、堰堤の工事ができるようなっただけなのかもしれない。卵が先か親が先か。

 路線の概要は次のとおりである。起点は佐喜浜港の北側、佐喜浜川に挟まれたところに貯木場があった。冒頭の説明のとおり、佐喜浜の木材は船で京阪神地方に出荷されていた。佐喜浜には鉄道が通らなかったので、トラックに切り替わるまでそれが続いた。なので、港湾の近くに貯木場があるのは全く合理的である。  貯木場を出た軌道は上流へ向かっていくが、最初は佐喜浜川ではなく、支流の弥ヶ谷川沿いを進んでいく。佐喜浜小学校を通り過ぎたあたりで室戸市道に合流し、しばらくは市道に転換されている。唐ノ谷川を横断し、上ノ神社と佐喜浜城址の間の旧河道みたいなところを抜けると、いよいよ佐喜浜川沿いに入る。途中県道と合流しつつも、しばらく右岸側を進んでいく。山口集落をすぎると、いよいよ民家もなくなり、山も深くなってくる。 佐喜浜川はその先で大きく蛇行しているが、軌道はその手前で左岸に渡っていた。また、蛇行の途中で支流が分岐しているが、その支流沿いに桑ノ木谷線という支線が敷かれていた。桑ノ木谷線は一キロない短い支線で、すぐに行き止まりとなる。佐喜浜線は佐喜浜川に沿って更に上流へ向かう。途中で県道と別れ、更に行くと、まもなく段という場所につく。かつて集落があり、200人を超す人口があったそうだが、廃村になって久しい。そこは佐喜浜川と無名の谷の二又になっている。無名谷を横断した軌道は、佐喜浜川を離れ、無名谷の右岸側を進んでいく。なお末端の1.8キロは段ノ谷線という支線なので、この辺りの何処かに境界があるのだろが、特に目印や変化があるわけではなく、変わりなく奥へ向かっていく。600mほど進んだ神社の近くで再度左岸に戻る。集落跡を見つつ下流方向に標高を上げていく。ヘアピンで再度上流へ向きを変えると、林道に突き当たるまで進んでそこで終点となる。昭和25年に廃止された。

 高知県では、東洋町には森林鉄道はなく、また徳島県には県西部の祖谷山にしか国有林軌道はなかったので、高知県最東端かつ、四国最東端の国有林軌道になるようだ。四郎ヶ野峠のすぐ西まで魚梁瀬森林鉄道の支線が来ているので際どいところだが、ギリギリ佐喜浜が東にあるようである。なお私設軌道を含めると、徳島市の材木商が上勝町に作った、殿川内森林鉄道が多分四国最東端である。路線は約15キロとそこそこ長いが、多くのが車道などに転用されているため、かなりの部分が遺構が残っていないことを確認する作業になりそうだ。まともな遺構が期待できるのは、山奥に入った短い範囲になるのだろうと思われた。その予想は大旨的中したが、ほんのちょっとだけ、いい意味で予想を外していた部分もあった。



 

 起点のあった貯木場跡。今は船溜まりになっているが、昔の佐喜浜港は小さく、広さは半分以下だった。佐喜浜港が現在の広さになったのは昭和40年度だそうだ。


 

 軌道は漁協の冷蔵施設の横を抜けていたと思われる。


 

 抜けたら佐喜浜川に突き当たる。こんな感じで軌道が走っていたのかな。・・・もうちょっと横のビニールハウスの所かも。


 

 昭和20年頃の米軍の空中写真。おそらく軌道だと思うラインをハイライトした。


 

 佐喜濱橋から軌道を見下ろす。軌道は橋の下を潜っていた。


 

 川沿いを行く。


 

 55号線と交差する。


 

 途中は民家になっていて道が途切れている。


 

 数軒やり過ごすとその先は農地に転用されている。


 

 そしてすぐに市道と合流する。ちょうど宇ケ川(うけがわ)橋という橋が架かっている。軌道も同様に川を渡っていたはずだ。護岸で遺構はない。


 

 その先はかなり先まで車道に転用されている。なので、今回は自転車を持ってきている。


 

 星神社前。


 

 唐ノ谷川を渡る高樋橋。


 

 この橋のすぐ横に古い橋が架かっていて、一瞬「軌道跡か」と思ったが、どうやら水路橋らしい。残念。


 

 舟場集落。


 

 舟場集落を出てしばらく行くと佐喜浜川がぐっと近づいてくる。


 

 少し行くと気になるところがあった。道路下に残っていた暗渠である。古っぽい作りに見える。軌道時代のものだろうか。内部に継ぎ足した跡でもあればわかるのだろうが、あいにく中まで入っていかなかったので分からない。


 

 ふと、背後へ振り返ると、レールがあった。農業用の黒パイプを吊るす梁に使われている。佐喜浜林道のレールかな? 記憶では、佐喜浜で唯一見たレールだ。(あ、でもガードレール代わりに道路脇に刺さってるのが上流にあったな)


 

 途中道が分かれる。軌道は左。


 

 道。県道が並行しているので交通量は少ないが、沿道に建物があるので交通量は0じゃない。


 

 やがて県道に合流。昔はもちろん、こっちがメインで、まっすぐに進んでいた。未だにそっぽ向いたコーナーミラーが残っている。


 

 反対側から。軌道は山の下に敷かれていた。


 

 一直線に伸びる軌道跡転用県道。


 

 昔はもちろんこんなに真っ直ぐじゃなくて、等高線に沿うようにくねくね走っていた。


 

 昔はここまで山が迫っていたが、今は大胆に削って県道をショートカットさせている。狭いほうが軌道跡。そして県道の旧道。


 

  対岸画像の集落へ橋が架かっている。吊橋の跡が残っている。


 

 県道を横切る。


 

 旧道を往く。


 

 橋は改修されている。ネタバレだが、車道に転用されている区間で軌道の橋台を見ることはなかった。


 

 軌道由来のゆったりしたカーブ。


 

 再度県道に合流。


 

 出発から2時間、今のところ見つかった林鉄遺構は無し。





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