初代多度津駅と讃岐鉄道跡4



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 琴平の前に善通寺市内に立ち寄りたいところもあったので、多度津には戻らずそのまま善通寺を目指した。立ち寄りたかったところというのが←の画像の建物である。善通寺の南大門の角にある建物なのだが、ぱっと見でもとても古そうな見た目をしているのがわかる。これは讃岐鉄道の琴平駅の建物の一つを移築したものだと言われている。一般に払い下げられ、買い取った人がこの場所に移築したんだと。なおその人の子孫が税金を現物(この建物)で払ったので、現在は財務省が所有しているという情報も。


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 現役当時の写真(戦前絵葉書など)にこの建物が写っていないか探してみたが、見つからなかった。これは駅長室や貴賓室などが入っていた建物らしく、一般の旅客の立ち入るところからは切り離されていただろうから、たまたま映らないアングルだったのかもしれない。加えて琴平駅は火災に遭って建て直されているので、その後に建てられたのかもしれない。


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 建物裏手。いくつかの建物がドッキングしていたような痕跡が。どの位駅舎時代の姿を留めているのかは不明。


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 可能ならば中も見たかったのだが、あいにく立入禁止の表示。見える範囲にはすぐ目の前に階段があって、登ると突き当りで左右に分かれているようだ。郵便ポストがあるけど、誰かが住んでんの? 多度津町資料館の学芸員の方曰く、過去に地元テレビの取材が入ったことがあるようで、その時にはまだ駅長室の入り口に表札がついたままだったと言っていた。


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 善通寺といえば、善通寺駅も忘れてはいけない。この駅舎は讃岐鉄道開通当初に建てられた大変歴史あるものである。過去に何度かリフォームされていて、建設当時の姿からは若干変わっているものの、建て替えをせずに明治時代の建物をベースにしているということで大変貴重な建物である。何より今現在日本で二番目以上に古い現役の駅舎である。二番目"以上"と言うのは、現在現役最古とされているのが武豊線の亀崎駅なのだが、火災を起こして駅舎を再建した可能性があり、善通寺駅が一位に浮上する可能性があるからだ。もっとも大昔の出来事で確かめる術がないので「ロマンある話だね」から先への進展はなさそうだ。



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 さて、ここからが本題。現在地は琴平駅の北西約1キロ、大麻踏切のすぐ横である(ファミマのすぐ近く)。撮影方向は北。左奥に岩崎トンネルが見える。金蔵寺駅付近からほぼ真っすぐに進んできた土讃線はここで琴平町街を避けるように大きくカーブし、金倉川の鉄橋へ向かっている。ちょうど7200系が走ってきたが、カーブのため車体が大きく傾斜している。ここで曲がらずにそのまま一直線に琴平の街中へ向かっていくのが元来の鉄道のルートだった。駅はホテル琴参閣の付近にあった。利便は良かったのだろうが、そこから土讃線を延伸しようとすると、旅籠や土産物屋でひしめく金毘羅参道や門前町を突っ切らなければならず、土地の収容が困難である。なので当時は町外れで田園が広がっていた現在地に移転した。駅の南の高松街道沿いにも多くの家屋が並んでいたが、あまり駅を遠ざけ過ぎると不便なのでその辺は目をつぶったようだ。ちなみに市町村合併前の琴平町は今よりずっと狭く、駅が移転した先は隣村だった。交番のそばを流れる川(金倉川ではなく町中を流れている水路みたいなやつ)が村境だったらしい。


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 同地点より反対(琴平方面)側。真正面の家は線路跡に立つ。


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 それから線路は道路に沿って敷かれていた。なお、この廃線跡は廃止後程なく琴平参宮電鉄に払い下げられ、電車の軌道に生まれ変わった。そのため讃岐鉄道跡というより参宮電鉄跡として紹介されることのほうが多い。実際、残っている遺構もみな参宮電鉄時代の物のようだ。自分もいつか参宮電鉄を調べる時には、改めて調べ直すことにして、ここは簡単な紹介に止めようかと思う。


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 とは言ったものの、やはり目の前に遺構があるとじっくり見ずにはいられない。大麻の踏切から500mくらい進んだ小川に橋台が残っている。上には橋台を利用してゴミ収集場が作られている。害獣よけなのか、嫌に立派な檻がついている。


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 橋台は石積みである。レンガ積みだった讃岐鉄道とは、時代の違いを感じられる。


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 橋台の手前(多度津方面)にはわずかに空き地が残る。琴参は複線だったので、すぐ横の自販機が置いてあるスペースも軌道敷きだったと思われる。


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 更に南下していく。途中、琴参バスの営業所になっている。


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 営業所のすぐ隣、川なのか排水溝なのかわからないが、ちょっと大きな溝があった。線路があった部分は暗渠になっているが、入り口から覗いたところ、ボックスカルバートではなく場打ちのコンクリートだったので、「ひょっとして」と淡い期待を込めて潜り込んでみた。あいにく中は水たまりになっていて、奥までの進入はできなかった。見える範囲に遺構がある様子もなかった。残念。コンクリートの中に埋まっている可能性は否定しないが、破壊する以外にそれを確かめる方法はない。


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 その溝から倉庫一つ挟んだ小川には橋台が残っている。一度セメントで隠されたようだが、経年で剥がれて再び日の目を見たようだ。不思議なことに、この橋台はレンガ積みである。自分の知る限り琴参の橋台は全部石積みだったはずだ。「鉄道廃線跡を歩くV」やweb上にある同好の士のレポートにレンガ橋台の発見例はなかったはずだし、今それらを読み返してもやはり見当たらない。なぜここだけレンガ積みなのだろう? ひょっとすると、讃鉄時代の橋台が残っているだろうか? しかし、どう見ても複線の幅がある。継ぎ足した様子もない。「でも琴平駅が近いし、この付近から線路が増えていたのかも? それか側線があったとか・・・」などとも考えてみたが、レンガの積み方に注目してみると、それもないんじゃないかと思った。


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 左画像は最初のページでちらっと触れた、丸亀多度津間にある中津川橋梁の橋脚である。レンガの積み方を見ると、長手と小口が同じ段に交互に置かれている。これはフランドル積みと呼ばれる積み方である。


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 更にこちらは善通寺駅の近くにあるアンダーパスである。やはり長手小口長手小口長手・・・のフランドル積み画像

である。他には琴平駅の北の岩崎隧道のすぐ近くの小さな橋画像にも、やはりフランドル積み画像の橋台があった。自分が確認していないところにもいくつかあるようだ。


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 再び件の橋台に注目してみる。同じ段に長手と小口が混在していない。こういう積み方をイギリス積みという。日本においてはイギリス積みのほうが主流であり、フランドル積みのほうは古く少数派である。実は讃岐鉄道のレンガ積みはこの古い積み方が採用され、JRとなった今でも現役でそれが使われているという、ややレアな例として知られているらしい。
 そうするとやはり、この橋台は琴参のものと考えたほうが良さそうだ。しかしその場合、なぜここだけレンガ積みなのだろうかという疑問が浮かぶ。複線軌道を敷くときに壊した讃鉄の橋台の廃レンガを再利用したのだろうか?? ちなみに橋台は石積みな琴参だが、トンネルのポータル画像には一部レンガが使われていたりする。


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 もう一つどうでもいい情報。(おそらく)琴参の廃レールが今も埋まっている。琴平駅周辺で自分が気づいた鉄道遺構は以上である。おそらく既に知られているものばかりだろうと思う。やはり讃鉄時代のものは残っていないようだ。


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 旧琴平駅の方へ移動していく。線路跡は駐車場になっている。琴参閣とその近くにある食品会社の従業員駐車場に使っている。この付近の空中写真を見てみると、駐車場に入った辺りから琴参閣に向け、徐々に土地が広くなっていく様子が見て取れる。偶然でなければ、讃岐鉄道時代の駅の形が残っているのだろう。讃岐鉄道は蒸気機関車で客車を引っ張るというスタイルで貨物輸送もあったので、駅はそれなりの広さを持っていた。この付近から2本3本と線路が増えていたのだろう。一方、琴参は軌道線型(路面電車タイプ)の車両での運行で、貨物輸送もなかったので、長いホームも広い駅構内も必要なかった。駅はこじんまりとして、この付近はまだ本線の途中だった。


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 琴参閣。その名の通り、琴参琴平駅跡に建てられたホテルである。細かいことを言うと、琴参閣のオープンはバブル期の昭和62年頃で、廃線後は長らくバスターミナルになっていたので、バスターミナル跡に建ったと言うのがより正確。そして讃岐鉄道(国有化後は讃岐線)の琴平駅跡でもある。空中写真やストリートビューで何度も見た建物だが、いざ現地に立ってみると、ずいぶんでかい建物だと思う。ぱっと見この界隈で最大のホテルではないかと思う。上記の通り、琴参の琴平駅はだいぶ小さくて、駅だったのはこのホテルの敷地のほんの一部だった。


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 初代琴平駅の写真が残されている。突き当りの平屋がそれである。チェンジ後はホーム側の様子。乗り場が一本だけしか見えないようだが、 臨時列車とかなかったのだろうか?四鉄史によれば、瓦葺きの純和風の作りの建物だったが、軒が低く貧相な感じだったという。実際、どこかのローカル線の途中駅っぽく見え、琴平の玄関口の駅としてはいささか地味に感じる。 なおこの駅舎は火災を起こし消滅した。


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 そこで再建されたのがこの駅舎だ。先代駅舎が不評だったからかは知らないが、和風だった先代とは打って変わって、洋風で重厚な作りとなり、面目を一新している。四鉄史には明治44年12月着工翌年3月竣工と書いてあるけど、他の資料には明治38年と書いてある。この写真は明治39年の初頭に日露戦争から凱旋した将校たちが金刀比羅宮に戦勝報告に行く途中の姿を捉えたものらしく、四鉄史の44年という記述が間違っているのだろうと思われる。気のせいか、屋根のあたりの作りとか、善通寺の建物画像と似てる気がする。同一の建物ではないと思うが、同じ時期に同じ人物によって設計されたんだろうなと思う。  



現代
昭和50年代
昭和40年代
昭和20年代

空中写真から駅跡の変貌を見てみようと思う。昭和50年代はバスターミナルで鉄道時代よりも建物が小さい。昭和40年代以前が軌道線時代となる。昭和20年代は建物が少ないくらいで大して違いはない。
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 これは上の4つと違って斜めから撮られている。これは国土交通省のではなく、「日本・風土と生活形態 : 航空写真による人文地理学的研究 序集」という本に掲載されている写真である。著作権の保護期間を満了したらしくて国会図書館デジタルで公開されている。撮影年度は書かれていないみたいだったが、琴参の駅が完成しているので、早くとも大正12(1923)年以降、いっぽう琴急の駅は着工すらしていないようなので、遅くとも昭和5(1930)年の少し前の撮影になるのだろう。


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 駅付近拡大。琴参の駅の南に立派な邸宅のようなものがある。これが讃岐鉄道の駅である。2つの駅が同時に写っている写真は数が少なくレアである。上記の通り火災で焼けたので、2代目の駅舎である。琴参は旧駅の直前でカクッと左に折れ曲がり、琴参琴平駅へ進入していた。実は琴参の駅は讃岐鉄道の駅跡ではなく、駅前広場に作られている。琴参が払い下げを受けたのは駅手前の線路跡だけで、駅舎は取得できなかった。もちろん琴参は駅をも含めた土地を希望していたが、琴平町も加わって複数回提出された願書は最後まで受理されることはなかった。ある意味、ホテル建設で長年の夢を叶えた感じだ。残った旧駅は鉄道官舎となったという記録がある他、子供の遊び場になっていたとか、イベントスペース的な使い方をされていたという話もある。どちらが本当だろうか。あるいは短期間官舎として使われて、すぐに役目を失っていたのかもしれない。


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 琴参琴平駅が写った戦前絵葉書。数種類あるようだが、よく見ると、左の背後に旧駅が写っているので、わりと初期の製品みたいだ。


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 旧駅前通り。上の写真とだいたい同じところ。セブンイレブンの横の路地である。突き当りに駅舎が建っていた。今は琴参閣の旧館(讃水)が建っている。琴参琴平駅は錦屋の向かい(コンクリートの壁のところ)にあった。



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追記(と言うか書こうと思っていてコロッと忘れた)
 琴参は計画しつつも実現しなかった計画が幾つもあることが知られている。その一つに、善通寺を経由せずに丸亀多度津間を直結する路線があった。琴参社史によると、大正11年、12年に相次いで申請されたものの、(おそらく国鉄線と競合するという理由で)申請が却下されたもの。経路は丸亀市内で既存の路線から分岐し、現在の県道21号の南を並行し、現多度津駅の北東で予讃線を跨ぎ、工場線沿いを進んで浜多度津駅の南に設けた駅へ至るものだった。社史には計画図も載せられていて、工場線の少し内側を予定線が走っている。これ、どう考えても廃止された旧線だよなあ・・・。申請が却下された以上、土地の買収は行われていないと思うが、どうやら琴参は琴平だけでなく、多度津でも土地の払い下げを目論んでいたようだ。





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