初代多度津駅と讃岐鉄道跡3



画像

 A地点。南を見る。右側の畑が線路跡と思われる。境界が無駄にカーブしているのは線路が曲がっていた名残だろうか。この旧線は北側が潰したスプーンのようにやや右に膨れた形をしている。荒神社付近の集落は昔からあったので、それを避けるためと思われる。この左カーブ以降はほぼ一直線に琴平方面へ向かっている。
地形図参照画像


画像

 B地点から北(A地点側)を見る。


画像

 同じく南側。佐藤水産の敷地が線路跡と思われる。土地の境界は当時とは変わっているのではないかと思う。


画像

 佐藤水産の南側。たぶん田んぼが線路跡。撮影方向は北。


画像

 同じく南。白い軽自動車の止まっているあたりが線路跡だろうか。


画像

 飲食店の駐車場となっている。


画像

 その向かい側は豊原幼稚園となっている。線路跡は幼稚園を突っ切っていたと思われる。。


画像

 幼稚園の南も宅地となっている。1997年の空中写真ではまだ農地なので、結構新しい宅地のようだ。線路跡は真ん中の道路。その空中写真だと、不鮮明だがまだ細長く土地が残っているようにみえる。手前道路は県道205号線。


画像

 南側。奥に見える二階建て住宅に向かって線路が伸びていたようだ。その間の田畑は、空中写真で見るといい感じに境界が連続しているように見えたが、こうやって地上目線で見ると意外とガタガタしている。さすがに百余年も経つと、境界が多少移動してしまうのかもしれない。


画像

 道路沿い、水路の左が鉄道跡だと思う。


画像

 二階建て住宅の南も住宅地となっている。撮影方向は逆(奥が多度津)。正面に見える切妻屋根の左の家(電柱の後ろに屋根だけ見えているの)がさっきの二階建て住居。


画像

 同じく南側。


画像

 住宅を過ぎると同じ幅の畑が2つ連続している。位置的にはこれが線路跡であるはずだが、やっぱり幅が広い気がする。明治時代の一回り小さい車両なら余裕で複線にできそうじゃない?ってくらい。本当にここなのかと不安になる。空中写真や古地図はしつこいくらいに見比べて、一応ここしかないとは思っているのだが・・・。


画像

 途中の用水路に遺構を期待してみるものの、応えてはくれないようだ。今のところ誰もこの旧線を調べた形跡がないのは、遺構が全く残っていない、期待できない状態なのだからかもしれない。昔の空中写真画像だと何かが残っているようにも見えるのだが。


画像

 また宅地に入る。水路の右、錆びたトタンの小屋の建つところが線路跡。

今気づいたけど、右の電柱が木製だ。


画像

 住宅の南側。畑になっている。


画像

その場で周囲を見回しているとあるものが目に入った。


画像

 おおぅ、あれは!


画像

 境界杭である。ちゃんと天辺に十字が彫ってある。遠目にも石製でそれなりに古いものであることがわかった。根拠はないけど明治時代くらい。讃岐鉄道の遺物ではないかと、期待が嫌でも高まる。境界杭なら社紋とか文字とか、何らかの印があるはずである。それを確かめないとぬか喜びになりかねない。見ている面にはないが裏にあるのかな。側面のセメントで埋もれている部分にあるとお手上げだが。


画像

 これか。このマークは・・・・、・・・・なんだコレ。
 実は讃岐鉄道跡を調べているのにもかかわらず、社紋の一つも把握していなかったことに気がついた。幸い、今はスマホでその場にいながらにして調べ物ができる時代である(イイジダイダナー)。早速取り出し「讃岐鉄道 社紋」などのワードで検索してみた。しかし、検索結果にこの杭のマークはなかった。正解不正解以前に讃岐鉄道のマーク自体が検索結果に出ていないようだった(今同じことを試してみたらウィキペディアの讃岐鉄道のページがヒットするが、当時はそれもなかった。編集歴を確認してみると探索のひと月後に誰かが追加したようだ)。さすがに100年も前に解散してしまった地方鉄道のマークなど誰も気にしていないようだ。ただ、"讃岐鉄道の社紋"という体で出ていないだけで、別の調べ方をすれば出てくるのだろう。例えば車両の写真とか、広告とかにそのマークが入っているのかもしれない。ただ、それをするのは今でなくてもいいなと思った。写真は撮ったし、家に帰ってゆっくり調べればいいなと。それで一旦はスマホを仕舞った。しかし仕舞うと同時にあることを思い出した。

「そういや讃岐鉄道って国有化される直前に買収されてたっけ?」

 その会社は山陽鉄道という。神戸から下関まで長大な路線を保有しており、現在は山陽本線として知られている(山陽線は私鉄買収路線)。山陽鉄道が讃岐鉄道を買収し、その二年後に山陽鉄道が国有化された。讃岐鉄道が国有化されたというより、讃岐鉄道を買収した山陽鉄道が国有化されたので讃岐鉄道(だった路線)も国有化されたというのが正確なところ。それで、此処にあるこれは山陽鉄道のものなのでは?と気がついた。そこで仕舞ったスマホを再度取り出し、今度は山陽鉄道で検索してみた。すると当たりだった。への字を重ねたようなこのマークは山陽鉄道のものだった。紛れもない鉄道の名残である。これには嬉しさ半分がっかり半分といったところ。嬉しさの半分は、何も残っていないだろうと予想していたところに、曲がりなりにも鉄道の名残を見つけたところ。がっかりの半分は、あくまでも讃岐鉄道関連のものを期待していたが、山陽鉄道のものだったところ。山陽鉄道の境界杭は山陽線沿いに複数の現存が確認されている他、四国でも多度津工場の周辺に複数残っている。山陽鉄道だった2年の間に立てまくったんだなぁ・・・。
 がっかりとは言ったものの、やっぱり「何も残っていないだろうと」思っていたところに当時の名残を見つけられたことは嬉しい。自分が調べてみた限りではこの境界杭の発見報告はないようだ(ネット上での話)。ひょっとしたら、気が付かなかっただけでまだ他にもあるのではなかろうか。多少テンションが上っていた自分は、近くで農作業をしていた男性に人に突撃取材を敢行した。

「すいませ〜ん、少し宜しいでしょうか?」

怪訝な表情を浮かべるその人にデジカメの画像を見せ、こんな感じのを見たことがないかと尋ねた。
生憎その人は境界杭については知らなかったが、自分が多度津の方から讃岐鉄道の跡を今日一日辿ってきたと伝えると、意外な答えが帰ってきた。

「昔この家の北の溝には蓋がなくて、そこには20年前まで中国のレンガで作った橋台が残っていた。」


画像

 この男性の言う場所はおそらく左画像の場所だと思われる。グレーチングが見えているが、そこが昔開渠になっていて橋台が残っていたようだ。20年前といえば2002年である。自分が廃線に興味を持って実際に歩き始めたのが2005年なので、そう考えるとかなり最近まで残っていたと思える。尤も20年前と言うのが文字通りの20年とも限らないのだが。単に何十年か昔という意味で言ったのかもしれない。90年代半ばには既に廃線ブームが起こっていたため、残っていたなら誰かしらが気付いていそうでもある。あと聞き流してしまったが、今思うと中国のレンガというのも謎だ。日本の中国地方なのか、国の中国なのか。そもそも自分の聞き間違いではないのか。もう少し詳しく聞いておけばよかったと今更に思う。


画像

 やがて踏切警報機の音が聞こえてきた。土讃線の踏切遮断機が見える。いつの間にか新線が近づいてきていた。合流ももう間もなくだ。


画像

 家?小屋?の建つのが線路跡。


画像

 南側。右の住宅の付近が線路跡。


画像

 県道25号と交差。青看の下あたりが線路跡か?


画像

 建物のあるところ、あるいはその隣が線路跡。土地の境界が線路や車道に対して鋭角になっていて、当時の境界のまま残っているのだと推測される。地上からだとわかりにくいが、←の空中写真だとまるわかり。


画像

 琴平側。工場横あたりで合流するものと思われる。旧多度津駅から続く旧線はここで終わりである。ちなみに土讃線では琴平駅も移転をしている。ついでなので琴平の旧線も紹介したいと思う。それは次ページにて。





前ページ 次ページ


廃線メニューに戻る  サイトトップに戻る