初代多度津駅と讃岐鉄道跡2



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 今度は琴平方面への線路跡を歩く。重ねてになるが、琴平・阿波池田方面への線路は現在の土讃線とは違い、東に出て大きく右に曲がり南下していた。南の方にもゆるいカーブがあって、一直線だった丸亀方面への線路よりは跡地をたどるのはやや難しそうに思えた。もちろん、旧版地図にはその当時の線路の形が描かれているわけだが、市街地化が進んで土地の区画もだいぶ変わっているようで、現在の空中写真からその痕跡を伺うことはできなかった。若干臭うところはあるが、確信が持てない。


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 しかし、古い空中写真を見ていると見えてくるものがある。昭和40年代以前は市街地の範囲は狭く、古い区画がかなり沢山残っていた。例えば左画像は現多度津駅の北側だが、不自然な土地が連続して残っている。特に今は高校になっている辺りは弧を描く様に細長い土地が残っていて、線路跡だと分かる。(実は今回詳しく調べるまで工場線のカーブが旧線跡だと思っていたというののはここだけのナイショ)
このような不自然な土地は土讃線に合流するまで広範囲に連なっており、これを結んだ線が讃岐鉄道(讃岐線)跡と言えそうだ。


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 再び多度津工場の東から。工場線の右側、道路との間に線路を一本引けそうなスペースが有る。多分そこが琴平方面への線路跡。多分ね。線路跡は所々畑として使われている。土地を借りてるのか勝手に使っているのか気になる。
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 「測候所踏切」で道路に突き当たる。民家の横が狭かったので道路に転用されたようだ。


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 反対側から見る。前のページで蒸気機関車が走る写真を載せたが、ちょうどこの踏切を通過する様子だった。


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 ほんの少し行くと、3階建マンションの前でまた一時的に廃線敷が復活する。、


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 マンションの前を過ぎると空き地に突き当たる。100年前の廃線跡がこんなにきれいに残っているとは考えにくいので、建っていた民家かなんかが撤去されたのだろうと思う。ここまで工場線と並行してきたが、ここから琴平方面に向けて右に曲がり始める。上記の通り、今回詳しく調べるまでは、漠然と工場線の大カーブが琴平方面への旧線跡かと思っていた。


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 ここから一時並行する道が無くなって追いづらくなる。真ん中の南国っぽい木(フェニックスだっけ?)と電柱の間を走っていた。


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 奥の大きな建物は高校の校舎。手前の民家の並びが線路跡。地上からだとわからないが、空中写真だと民家が弧を描いて並んでいて線路跡だと分かる。今回は←の地図をあえて空中写真モードにしているので、動かしながら読み進めてほしい。


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 線路跡は住宅や高校の敷地で分断される。旧線は右へ右へと曲がってゆき、高校の次は病院の前で道路と交差する。この道路は古地図画像にも同じ線形の小径が描かれているので、昔から存在しているようだ。
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 病院を掠めた線路跡はグランドに飛び込んでゆく。綺麗さっぱり平地になっていて何もない事が敷地外からでも分かる。


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 県道の跨線橋からグラウンド側を見る。讃岐鉄道は弧を描きながら跨線橋の側へと走ってきていた。


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 跨線橋の直ぐ下。意味深げな形でブロック塀が建っている。その手前が線路跡。古い空中写真を見ると、このスペースには農作業小屋かなんかが長らく建っていたようだ。ひょっとしたらこの部分は昔の土地境界がそのまま残っているのかもしれない。
 右奥へ向かう複線は予讃線。弧を描いて左奥へ走るのが工場線。最近保線をしたのかバラストがきれいだな。


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 反対(県道の南)側。みどり荘というアパートになっている。


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 跨線橋の下で新線と交差する。


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 アパートの後ろは駐車場になっている。間に用水路があるが、橋台はなかった。と言うか、古い空中写真を見た感じだと、用水路自体が戦後作られたみたいな感じだ。


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 南から。正面に見える二階建てがみどり荘。単線鉄道にしてはやや幅が広い気がする。築堤にでもなってたのかな?


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 その後ろ側。同じ幅の畑が南に伸びている。


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 F地点。畑はやや弧を描いている。


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 反対側は自動車教習所になっている。昔はこちら側にも同じ幅の畑が続いていたことが古い空中写真から分かる。


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 教習所の南側。民家の東隣が線路跡。ここからでもまだみどり荘が見える。


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 南側。瓦屋根の二階建てに向かって線路は伸びていた。多分。


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 H地点。この狭い隙間が廃線跡か?と思ったが、多分右の住宅が廃線跡。


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 南側。正面の畑じゃなくて右の宅地が廃線跡。人んちに正面からカメラを向けるのは流石にまずいだろうとかなりずらして撮った。


 あまり書くことがないのでトリビアでも。讃岐鉄道の起点は本社や修繕場のあった多度津駅だが、列車の上り下りは琴平側へ行くほうが上りだったという。


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 I地点。道路と言うか水路沿いが線路跡。


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 反対側。ここも水路が流れている。


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 この水路、上空から見ると道路を境にそれぞれ逆方向にズレている。想像だが、もともとこの水路は一直線だったが、ここに線路が通ることになって直角に交差するように位置を変えたのではないだろうか。あるいは真っ直ぐ作りたかったが鉄道があったのでできなかったか。


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 J地点からI地点を見る。コーナーミラーの立つすぐ右を讃岐鉄道が走っていた。


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 K地点。右の住宅の位置が線路跡。正面に見えるのは豊原保育所。


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 住宅の南側。保育所の駐車場として使われている。


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 昭和40年代まではこの付近にも線路跡が残っていたようだが、今は保育所と宅地になってしまっている。





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