初代多度津駅と讃岐鉄道跡


 

 香川県に最初に鉄道を引いたのは讃岐鉄道という私鉄だった。時は明治22年5月23日のこと。松山の伊予鉄の半年後だった。四国最初という称号は伊予鉄に譲ったものの、伊予鉄は軌間762mmの軽便鉄道でのスタートだったので、国鉄と同じ1067mmの軌道を採用したという点では四国最初の鉄道だった。現在は国有化を経て予讃線と土讃線の一部になっている。

 讃岐鉄道は初め、丸亀・多度津と琴平を結んだ。本社は多度津に置かれた。高松が本社じゃないどころか、路線自体が届いていなかったことに驚いたかもしれない。実は丸亀以東はあまり儲けにならないと思われていた。もともと瀬戸内海は海運が非常に発達した所である。高松を始め香川県の主要都市は、自然と海運の利の良い沿岸部に発展してきた。そのためそのような都市を鉄道で結んでも、海運ネットワークと競合することになる。 それに宇高船のない時代は、どちらかといえば多度津港が重要視されていた。ここは金毘羅さんで有名な琴平にほど近く、江戸時代以前から金毘羅参りに向かう旅行者で賑わっていた。実際の所讃岐鉄道は、金毘羅参りの参詣者を運ぶ参宮鉄道として建設された。江戸後期に多度津藩が多度津港を改修すると、多度津には北前船も寄港するようになり物も集まるようになった。その繁栄は高松に勝るとも劣らないものとなった。宇高連絡船が高松に人や物の流れを呼び込むまで、讃岐の玄関口は事実上多度津だった。

 多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設された。多度津工場の南の一角、いまは町民会館となっている場所である。ホームは行き止まり構造の頭端式で、線路は東に伸びていた。琴平方面への線路も現在の土讃線とは逆に東へ出ていた。線路は丸亀行きと琴平行きの二つが少しの間並走して、水産高校のあたりで二つに分かれていた。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流していた。琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていた。 予讃線を松山方面に伸ばす際、本台山(多度津山)が障害になって難しいことと、宇高連絡船が出来て高松が四国各地を結ぶ列車の起点になると、土讃線へはスイッチバックさせる必要が生じて具合が悪いことから、現在地に移転された。

 旧線跡は総じて平野部にあり、多度津駅周辺では一部が多度津工場への引込線に転用されているが、それ以外の部分はすべて市街地か農地となっている。現在の空中写真でこの間を見ても、その跡地は判然としない。なにしろ駅が移転して旧線が廃止されたのが大正2年(1913年)のことで、今年(2022)でまもなく110年になろうとしている。正直、遺構が期待できる状態では無いだろうし、正確なルートも実はよくわかっていなかった。しかし、古い空中写真を見ると、わずかに鉄道跡地のようなものが見えるし、一部の田畑の区割りに名残のようなものが見える。頑張ればルートを特定できるんじゃないかと思えた。それにここは四国の鉄道の原点とも言える場所である。何もなくても一度くらいはその経路を辿ってみるのはいいかもしれない。

 


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 ここは多度津町民会館、サクラート多度津。導入の説明↑の通り、かつて讃岐鉄道が築いた初代多度津駅の跡である。駅舎は桜川に面して多度津港のある西に向いて建てられていた。この写真は南の県道側から撮っっている。駅舎の側面を見ている形となる。


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 桜川の方から東を見る。この向きで正面を向くように駅舎は建てられていた。正面左に見える大きな建物は多度津工場の会食所。西条市にあった航空隊の格納庫を移築したもので、貴重なもの。ただ老朽化で取り壊しが予定されており、今頃はもうなくなっているだろう。右はただの民家。


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 初代多度津駅はこんな駅舎だったようだ。木造二階建てで、一階が駅、二階が本社として使われていた。

四鉄史より引用


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 ちなみにこの駅舎兼本社は昭和44年まで現存していた。多度津駅が移転して不要になったあと、大正7年に多度津町に払い下げられ、移築の上で町役場として使われていた。左画像は戦後の姿を写したものと思われる。増改築を経てかなり印象が違っているが、大まかな建物の形と窓の数などに名残が見える。


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 駐車場の片隅に駅跡を示す石碑がある。側面を見ると町政100周年を記念したものだそうだ。多度津町の成立は1890年。平成の初めぐらいに建てられたっぽい。


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旧多度津駅構内は今は多度津工場に取り込まれている。この多度津工場も、元は讃岐鉄道の車両工場(当時は器械場)として開設されたもの。当初の職員はわずか6人だったという。現在の規模になったのは昭和5年頃の大拡張工事による。駐輪場の辺りからフェンス越しに工場内を見る。奥には保存中のロ481とC58333がみえる。ロ481はイベントもないのに小綺麗だなと思ったら、翌月に佐川町に搬出されていった。


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多度津駅構内の写真も残されている。これは上の写真とは逆に東から西向きに撮影されている。すなわち左が南(県道)側。右の上屋付きのホームには列車が停まっている。突き当りには多度津駅兼本社の建物の裏側が見える。左端には短い貨物用ホームのようなものが見える。間に線路が二本あるが、奥の方で収束しているように見えるので機回し線だろうか。

戦前絵葉書より


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 これは現代の空中写真。個人的には黄と赤で示した部分が駅だったのではないかと考えている。ちなみに器械場は入れていない。


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 工場内の通り抜けは無論不可。一般道に出て東へ移動する。これは多度津工場の正門付近。この付近は昭和6年頃の大拡張のときに広がった部分で、それ以前にはここに小学校があった。


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 工場東側へ移動。さっきケツが見えていたC58の前側が見える。その右の建物の場所が元の多度津駅跡だと思う。


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 反対側。あまり位置関係を意識せずに撮ったので、実際の線路の位置は左のジャングルのところだと思う。古い空中写真を見ると、昔はこの辺にも多度津工場の建物があったようだが、今は空き地になっている。


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 住宅の横の線路跡。道路になっているが、国鉄の境界杭が残っていて、鉄道用地であることがわかる。


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 やがて塀は途切れ、工場を出た線路が一つに集まってゆく。


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 工場内。もちろん柵越しに撮った。当時すでに引退済みのTSEやジョイフルトレイン?に改造中?の185が停まっている。 左から二番目の線路画像には本線と書かれている。これはかつて浜多度津駅までつながっていたようだ。


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 工場を出て東へ向かう。線路は丸亀方面行きと琴平方面行きのがしばらく並走していた。現在は丸亀方面行きだったと思われる部分が多度津工場への引込線に転用されている。レールはヘロヘロでうらぶれた地方私鉄のよう。工場へ入場する列車が低速で走るだけなので全く問題にならない。


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 ↑の場所の大正時代の写真。琴平行き?の列車の手前にももう一本線路(丸亀行き)があるのがわかる。
四鉄史より引用


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 高校の裏を過ぎた所で工場線は多度津駅へ向かい大きく右に曲がる。旧線はそのまま真っすぐ直進していた。


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工場線と予讃線との間には車道が走っている。


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 いかにも線路跡を転用したという感じだが、この道路は実は昭和40年代以降に作られたもの。より正確に言えば、昭和40年代以前も道はあったが、隣の工場線と比べても明らかに幅が狭く、人や自転車が通れるだけの小径でしかなかったことがわかる。この小径はおそらく旧線が現役の時代からある道ではないかと思う。




 念のため少し検証。検証といっても空中写真に一直線に線を書いただけだが。ここでは貼り付けしやすいのでGoogleマイマップのシェイプ機能を使用したが、地理院地図でも似たような感じになった。
 西側の始点は工場線の直線部分に、東の終点は金倉川に架かる中津川橋梁の下り線の上に設定した。するとやはり、半分ズレたみたいな感じになって、道路と直線がきれいに重ならない。やはりもともと小径が存在していたのだと思う。多度津駅の移転は大正時代のことで、自動車がまだまだ珍しかった時代だ。線路跡を車道化するという発想がなく、払い下げられて田畑になったのだろうか。後に車道が整備されたときは、元からある小径を拡幅したのと、道幅自体がさほど広くないため、一部だけしか線路跡と重ならなかったようだ。 とはいえ、逆に言えば一部は重なっている部分もあるわけだし、道路が線路跡ではないとも言い切りにくい。なんとも中途半端なことになっている。



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 ちなみラインの東の端をなぜわざわざ中津川橋梁にしてあるのかというと、ここには讃岐鉄道時代の煉瓦橋台画像橋脚画像が残っていて、昔から線路が動いていないことが確実だからである。


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 多分こんな感じで、道路の左1/3から半分を残した右側が線路跡だったのではないだろうか?


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 途中に用水路が交わっているが、橋台は残っていない。先に言ってしまうと、この旧線で橋台を見つけることはなかった。琴平方面の旧線も同様。もとより遺構が見つかるとは思ってなくて、何も残ってないことを確認しに来たようなものだ。


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 東へ進んでいくと、やがて大きな道路と交差する。この道も比較的近年作られたもの。右からは予讃線の新線が合流してくる。6000系が通過中。


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 その先を見ると、道の正面に予讃線が割り込んでくる。その一直線ぶりに感心しそうになるが、よく見ると上り線の方と一直線になっている。中津川橋梁のレンガ積みから分かるように、讃岐鉄道(単線時代の予讃線)は向かって右側の下り線を走行していた。上り線は昭和40年代の複線化のときに増線された部分で、この点も道路が正確な線路跡ではないことの査証と言えそうだ。


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 予讃線に向かっていく旧線跡。


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 反対から。次は琴平方面への旧線跡を歩く。





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