一の谷林用軌道大師谷線跡



 

 一の谷林道に3本ある2級線の最後の一つが大師谷線だ。(本線格の一の谷線はこちら。岩茸線はこちら。)
 この路線は一の谷林道では最も遅く開削されたもので、戦後の昭和29年から10年間使用された。路線長も681mと小ぶりだ。端から端までおそらく一時間とかからずに踏破可能だろう。しかし実際の所、そんな短時間では攻略できない。 理由は標高だ。大師谷線が敷かれていたのは川奈路という地区の北西である。地形図を見ると徒歩道(破線)がいびつな「3」の字を描いているところがあるのだが、その3の字の部分とその下の水平の区間が大師谷線の跡である(左の地図だと青で強調されている部分)。等高線が示す通り、標高はかねがね1100m前後である。麓を走っていた一の谷線とは600m近い標高差がある。当然、両者は直接接続されておらず、索道が両者を連絡していた。


 正攻法で行くなら、川奈路地区から伸びる徒歩道が唯一のアプローチルートになる。しかし、それは上記の通り600mの登山ツアー付きである。真面目にこれを登るのはちょいとしんどい。それでどうにかして楽できないか考えた。 まず考えたのは東の林道からショートカットする方法だった(案1)。空中写真を見ると地図にない道(おそらく作業道)が軌道跡周辺を走っている。そのうちの一本は川奈路からの林道に繋がっている。これを辿るのが一番楽だと思った。しかし、このルートが使えそうか下見に行ってみると、入り口が激藪状態で一気に気が萎えてしまった(ただし入口の場所を勘違いしていたことが後日判明した。ちなみに現場はスマホの電波を拾えない)。 それで次に、西の方からアタックすることを企んだ(案2)。地形図を見ると北西方向に行き止まりになっている車道が描かれている。この車道にも作業道が繋がっているのが空中写真からわかったので、通れそうか下見に赴いた。そしたらその道は入り口から封鎖されている林道だった。その入口というのが、稲村ダムのすぐ東のところである。路面は良いので自転車を持ち込んで走る事を考えたが、アップダウンが多い上に延長が長く、その先の作業道もほとんど自然に還っているようだった。 この作業道、2004年の空中写真が最も鮮明に写っている。その前後数年間使われたものだとすれば、最悪15年程度放置されている可能性がある。現状どうなっているか想像に難くない。 他にも大川村側から山越えするのはどうかとか、色々考えてみたのだが、楽をするための労力がそうしない場合の労力を上回りそうな勢いになったので、結局素直に山を登ることに決めた。それでもやっぱり600m全部登るのは辛い。それにこっちはこっちで麓の登山道が不鮮明だった。それで途中の林道のヘアピンカーブのところからショートカットする案(案3)が誕生した。うまく行けば200mくらい標高を稼げる。2020年11月15日を決行に決め、一の谷に乗り込んだ。


1.アプローチ編

 

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  上記の通り、この路線は延長が680mしか無い。一時間で歩けてしまう長さである。普通に書くとあっという間に終わってしまうので、今回はアプローチのところから書いていこうと思う。

 車はヘアピンカーブのところが造林作業のために整地されていたのでそこに止めた。そこから徒歩にて少し林道を登ると、左画像のように地図にない道がある。これを登る。


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 この道は少し進むと坂を下ってしまう。なので適当なところから斜面を登る。


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 すると獣道なのか、古い造林用の巡回路なのか、薄っすらと踏み跡がある。これを辿って斜面を進む。途中でほとんど斜面になっているが、頑張るしか無い。


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  やがてスズタケの群生に入るが、その中に薄っすらと道のようなものが見える。GPSの現在地はすでに徒歩道に重なっている。通る人がおらず、保守されないので藪化しているようだ。


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  スズタケの群生を抜けると杉林に入る。曲がりなりにも道だと分かる程度に平場がある。しかし道としてはかなり貧弱だ。おそらく林業関係者だけが使っていた道で、古い山越えの道ではないようだ。古地図にもこの道は出ていない。


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  やがて道は登りへ。痕跡が判然としないところが多いが、尾根上の道なのでとにかく山なりになっているところを進んでゆく。


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 それからしばらくひたすら山を登っていく。50分くらい登るとやや勾配が緩んできた。


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 するとまもなく平場が見えてくる。


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  細い平場が線状に伸びている。間違いなく道だ。



2.軌道跡


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 軌道の起点はてっきり尾根の先端だと思っていたが、尾根を回り込んで左の方にも続いている。先にそっちを見に行ってみる。


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 藪はすぐに消え、軌道由来と思われる十分な広さを持った平場が現れる。尾根のこちら側は杉林ではなく広葉樹が広がっている。随分と明るい印象。


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 法面には石積みが見られる。


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 進んでいくと程なく土砂崩れしている。


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  土砂と倒木を乗り越えていくとその先にも平場があったが、すぐ目と鼻の先で終焉を迎えていた。木立の向こうに山々が透けて見える。あの向こう側は断崖になっているようだ。軌道跡に登りつめてからここまで大した距離ではない。約6分ほどの道のりだった。ここが路線の起点だったのだろうか? 周囲に索道の跡がないか探してみたが、それらしいものは見当たらなかった。案外、こっちにも線路を伸ばそうとて止めた跡とか。


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 スタート地点近くに戻った。稜線を境にはっきりと杉林と原生?林が別れている。


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  当初はこの尾根の先が軌道の終点だと思っていたので、索道の施設もこの辺りにあると思っていた。むしろこっちが本命。しかもこちらは平場っぽくなっていて少し怪しく見える。が、決定的な痕跡というものは見当たらなかった。


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 ちなみに森林鉄道の索道がどんなものかと言うと、このようなものだったようだ。これは小川署管内(おそらく長沢林道)で使われていた物だそうだ。鉱山跡などでよく見られるコンクリート土台+鉄塔のものとは違って木造である。まあ運ぶものの重量が桁違いなわけだが。仮に撤去されずに残されたとしても、何十年も形が残りそうな感じではない。


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 結局、大師谷線の索道施設は一切見つからなかった。代わりに面白いものを発見。


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 人工的なものだろうか。はたまた自然のいたずらか。人一人楽に通れるくらいの幅がある。


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 この間をワイヤーが通っていたのかと一瞬考えかけたが、さすがにこれは自然のいたずらだろう。しかし思いがけず面白いものを見た。


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 それでは終点へ向かって前進を開始する。


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  出発して程なく、石積みの築堤に差し掛かった。想定していたよりちゃんとした遺構があって少し驚いた。


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 それから山肌に沿って軌道が伸びてゆく。勾配は非常にゆったりしている。


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  道の右側はとても風通しがいい。森林鉄道は谷間を縫うように敷かれている場合が多いが、ここは例外でとても空が広く感じる。以前歩いた別子銅山の上部軌道跡を思い出す。


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 カーブを抜けるとガレ場になった。傾斜は大したこと無いので気にせず進む。


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 途中岩が張り出しているところがあり、もとの路面が短距離残っている。


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  その先はまた似たような状態になっている。


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 驚いたことに、ここには橋台が残っていた。どうやら陸橋になっていたようだ。ひょっとしたら手前の部分もそうだったのだろうか。石積み築堤のみならず橋まで架かっていたとは。場所がやや特殊だが曲がりなりにも2級線。案外ちゃんとした路線だったようだ。


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 橋台が残っているのは手前側だけで、奥の方は見当たらなかった。


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  しばらく進む。また路体が崩落している。斜面には水の流れた跡がある。雨が降ると水が流れるのだろう。


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 この斜面は比較的幅があって、横断するのに2分くらい掛かった。所々石積みの路体が残っていた。


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 石積みが残っていたのは起点の近くとここの二ヶ所だけで、以後目立った遺構は現れなかった。しかし軌道跡自体はまだもう少し続く。もう中間点は通過したと思われる。


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  ここは危険だ。このすぐ右は断崖になっていて、うっかりすると何十メートルかわからない谷底へ真っ逆さま。しかし藪のせいで路肩の様子がわからない。なるべく斜面に張り付いて行く。皮肉にも藪が濃くて下がよく見えないのであまり怖くない。


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  それからまもなく道幅が広くなる。


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 作業道に出たようだ。ここはマシだが、他の部分は激しく藪化している。


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 少しの間作業道を歩いたが、ふと路肩の下に目をやるとスズタケが帯状に広がっているのが目についた。どうもそこが平場になっているように見える。


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 降りてみると、それはたしかに平場だった。軌道跡は拡幅され作業道になったと考えていたが、そうならなかったようだ。しかし完全にスズタケの海になっている。


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  上の作業道を歩いたほうが遥かに楽なのだろうが、ヒーコラ言いながらスズタケの海を泳いだ。やがて谷へ突き当たった。


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 橋台は残っていないようだ。


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 こちらは起点側。こちらも痕跡なし。川の両岸が荒れているようだ。標高の割に川の水量が増えるのだろうか。それとも作業道を切り開いた影響か。


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 対岸の様子。激しく藪化している。


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 その上、平場が見当たらない。一瞬「終点を過ぎてしまったのだろうか?」とも思った。しかしGPSの現在地はまだ徒歩道の途中を示している。


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 斜面の下の方に平場が見えるが、これは軌道跡ではなく作業道。下の方から登ってきている。いずれ合流するはずだ。思えば不思議だ。軌道跡を拡幅すれば作業道も付けやすかったはずだが、なぜか避けるように開削されている。建設当時すでに軌道跡がわからなくなってしまっていたのだろうか。


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  やがてGPSの現在地が徒歩道の終わりと重なった。事実上大師谷線の終点になる。


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 奥側から見た終点の様子。終点らしさはあまり感じない。下から登ってきている作業道がすぐ横を掠めている。それで周辺の地形がすっかり変わってしまったのかもしれない。



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 答え合わせしよう。昭和40年頃(廃止直後)の空中写真を見ると、書き込みが要らないくらい鮮明に軌道跡が写っている。やはり谷(I地点)より先にも軌道が敷かれていたようだ。


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 しかし、地理院地図の機能を使って距離を測ってみた所、I地点では既に延長の681mを突破していることが判明。尾根の上を起点と仮定して681m地点がどこになるのか検証してみた所、作業道に出た辺り(H地点)になることが分かった。谷にぶつかる少し手前が2級線の終点で、その先に続いていたのは作業道だった、痕跡がないのは陸橋になっていて地上に土木構造物がないから。というのが無難な見解だろうか。でなければ延長のほうがデタラメである。



3.帰還編


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 帰り道は来た道を引き返さず、東の林道へ抜けることにした。最初に示した案1を逆打ちすることになる。探索時点では終点の位置に自信がなかったので、もしかしたらこの先にも何か見つかるかもという期待と、最近の空中写真にも大部分が鮮明に写っているので、どのような道か純粋に気になっているという理由と、下見のときに入り口が分からなかった悔しさが理由だ。まずは方角はそのまま作業道を歩いてゆく。


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  10分ほど歩くと4差路につく。地上は藪化していてわかりにくいが、上を見ると空の切れ目が道の形になっていてそこが交差点だと分かる。


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 ここは鋭角に折れる。


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  しばらく行くと別の作業道と合流する。この道が東の林道の方へ続く道だ。途中の分岐を間違わなければ無事抜けられるはずだ。


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 ところどころ「最近まで使ってたんじゃないか?」と言うほど藪も少なくて歩きやすい。両端が荒れているので偶々そうなっているだけだが。もし再調査することがあるなら、次はこのルートを使ったほうが良さそうだ。


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 途中、スタートした尾根が見えた。一瞬斜面の傾斜が緩むあの上から水平に移ったはずだ。


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 同じところから田井方面。街は見えないが、光る屋根のようなものが見えた。「体育館でもあるのかな」と思いながら見ていたが、どうやら堆肥センターが見えているっぽい。冬の空気の澄んだときならきれいに見えそうだ。


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  やがて分岐が来た。幸いヤブが薄くてすぐに分岐だと分かった。


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 そして猛烈な勢いで降り始める。


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 こんな坂である。


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 上の写真は圧縮効果で実際より少し急に見えるが、横から見ても十分に急だ。これは普通の林道じゃなくてブル道だな。一歩一歩進むごとに下がる高さが半端ない。ジャンプしながら下ったらスペランカーみたいになりそう。


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 それにしても不思議なほどに植生が少ない。帰り道はかなりのハイペースで進んでいる。もう少し軌道の調査に時間を充てても良かったかな。


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  やがて緩勾配の広い道に出た。普通の林道に降りてきたようだ。


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 と言ってもここは枝道、本線にはまだ遠い。そしてここも何年も使われた形跡がない。


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 そして始まる激藪区間。しかしGPSを確認すると、林道(地形図に載っている区間)まであと僅か。ソッコーで萎えてないでもう少しこっちの方まで調べておけばと後悔した。


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 程なく藪を抜けてきれいな道に出た。しかし、1度下見に来たはずの場所なのに、何故か記憶にない。


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  「アルエー?」と思っているうちに本線と合流した。そして気づいた。「場所違うやんけ」と。自分が下見で入り口だと思っていたのはつづら一個分下の道だった。


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 すぐ近くの草ヒロが目印になって気づいた。50系ハイエースと2代目のデリカかな?


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 あとは現役林道を下っていくだけだ。新しい轍が残っているように、この林道はよく整備されている。自分も一度走った。


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 おまけ
 駐車場所の少し上の方にすごいのが止まっている。


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 フロントグリルについているのは古いいすゞのエンブレムだ。TW型かな? 林道ではボンネットトラックが重宝されたと言うが、これも営林署の持ち物だろうか? しばらく動いた形跡がない。2004年の空中写真にも同じ位置に写っている。でもナンバーが付いたままだ。よく見たら新2桁ナンバー(S63〜H11払出)でなんかチグハグな感じネ。と思ったが、調べてみるとフルモデルチェンジ無しで昭和61年まで生産されていたらしい。この個体がどの年式かは分からないが、案外新しい車体だったりして。岩手県の某町にはこれの現役のやつがパレードできるくらいいるらしい。


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 保存団体が引き上げてレストアしないかしら。




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