滑床林用軌道跡1


 南予を代表する景勝地である滑床渓谷は、宇和島市街からは東南東方向の、市域が隣町に向かって天狗鼻のように突き出た場所にある。延長12キロほどのこの渓谷は、"ナメトコ"の名が示す通り、一枚岩の滑らかな川底が広範囲に連なっており、多くの観光客がこの奇勝を見るべく訪れる。その川底はとても滑らかで、夏季にはこの天然滑り台を目当てに全国から人の集まる、キャニオニングの一大スポットになる。避暑地としても定評があって、源流部に位置するため夏でも水温が低く、木陰の豊富な谷底には清涼な空気が閉じ込められており、"南予の冷蔵庫"という称号を贈りたくなる。周囲を取り囲む1000メートル級の山々では、秋には見事な紅葉も見られ、紅葉狩りのハイカーで賑わう。更に冬季には真っ先に雪化粧をし、温暖な四国のイメージとは裏腹な銀世界を見せる。滑床渓谷は、人気観光地として名を馳せて久しいが、それ以前の滑床は四国でも指折りの木材の産地で、最盛期には愛媛県では数少ない森林鉄道の一つが敷かれていた。

 藩政期の滑床は宇和島藩の所領で、一帯は藩有林であった。伐採が始まる前の滑床には、ツガ、モミ、ケヤキなどが生育していた。特にケヤキについては、目通り2丈(地上から約1.2mの高さで測った木のサイズ。2丈はおよそ6m)ほどの巨木が珍しくなく、他の有名な林業地と並び称されたという。このような豊かな森林資源がありつつも、組織立って大規模な伐採が行われるようになったのは、かなり近代に近づいてからのようだ。理由は流送が行えなかったからだ。滑床渓谷を形作った目黒川は、実は四万十川の支流であり、宇和島とは正反対の太平洋へと向かっている。この辺の地理に疎いと、豊後水道からわずか数キロの地点に太平洋との分水嶺があることに驚くこと請け合いである。機械力のなかった時代、伐木を運搬するためには川の流れを利用していた。しかし、宇和島から遠ざかってしまうのでは話にならない。「だったら陸路で」となるが、宇和島に出るには標高1000mに近い山を越えていかなくてはならず、低い方へ迂回していたのでは、距離も時間も余計に増え、労力や採算が釣り合わなかった。自分で使う分の木を伐ることはあっても、遠方に運んでいって商品として売るというような形態は成立しづらかったようだ。また、宇和島藩は滑床一帯の山を度々留山に指定したので、伐採それ以前に立ち入れない時期もあった。このような険しい地形と藩の政策が、原生の森林を後代に残す結果になった。

 滑床渓谷に転機が訪れるのは天保十一(1840)年のこと。1868年が明治元年なので、江戸時代も終りが見えてきた時代の出来事である。この年、宇和島藩が梅ヶ成峠に馬道を開削し、土佐国の幡多地域へ短絡する街道を整備した。元来の土佐街道は、千羽ヶ峠を越えて出目へ出、広見川を下って江川崎へ出、四万十川を下って中村に出ていた。このルートはやや北に寄っていて遠回りだが、梅ヶ成峠を越えていけば、 内側をショートカットできるので、大幅な短縮が可能だった。峠越えを挟む分過酷な道程だが、健脚な者であれば時間的にはかなり優位だったようだ。 この道は荷物を積んだ馬が通れるように考慮されており、北播地域(大正、十和、西土佐)の産物を宇和島に集めるのが主な目的だったが、滑床渓谷を通過するため、木材の搬出も容易になった。むしろ「愛媛県史社会経済2農林水産」では、初めから滑床の木材の搬出を容易にする目的もあったのではと分析している。意図したものかはさておき、それ以後滑床でも本格的に林業が行われることになった。宇和島と滑床を隔てる山は険しいが、直線距離で言えば十キロにも満たない至近距離である。しかも、峠より宇和島側では藩政期から林業が営まれていたので、搬出方法が確立されていたと見るのが自然である。峠を越してある程度降りれば、滑床の木を外へ搬出することは理論上可能だった。もっとも、幕末期の滑床山での林業の実態を知らせる資料は少なく、伐った木をどのように運び出していたかは詳らかではない。明治期には、伐った木を現地で板材や角材に加工していたというので、江戸末期も同じようなものだったのではないかと思う。

 明治維新の版籍奉還により、藩有林は国有林となった。しかし、新体制への移行がスムーズに進まず、明治初頭の国有林は停滞と混乱をみまわれる。滑床山の官業(営林署の直轄事業)が本格化するのも、明治も半ばに差し掛かってからのようだ。滑床の木は、立木のまま材木問屋に払い下げられ、上記の通り、現地で加工の上で宇和島に運んでいた。江戸時代に出来た滑床の道は、現在のような谷底の道ではなく、肩の尾根の下の山腹を進んで横崖の上へ出、霧ヶ滝、隠地ガ成を経て万年橋へ降りるルートだった。藩政期には画期的とされた道も、明治時代には陳腐化していたのか、単に伐採が進んで道から遠いところに事業の中心地が移っていて不便だったのか、輸送効率が悪いとなったようで、ついでに将来的な目黒(滑床の南東方向)での伐採も見据えて、あらたな林道を建設することになった。これは軌道ではなく、徒歩や牛馬の道である。明治二十五(1892)年、幅六尺(約1.8m)、延長一万六百五十四間(約19.4km)の林道が完成し、宇和島の大超寺奥から梅ヶ成峠を越えて滑床、そしてその先の目黒まで近代的な道がつながった。四年後の二十九年には、目黒山で官業も始まった。しかし滑床での立木の払い下げは大正期まで続いたようだ。

 滑床の国有林で画期的な出来事は、表題にもある通り、滑床の材木を最短距離で宇和島まで運ぶ、森林鉄道が建設されたことである。人力に頼った前時代的な搬出が続いていた結果なのかは分からないが、滑床には大正期に入っても広大な天然林が広がっており、営林署でも「それを生かさない手はない」と言う話になったようだ。目下障害となるのは標高千メートル近い梅ヶ成峠だが、これはインクラインで山のてっぺん近くまで木材を曳上げるという荒業でクリアした。宇和島側は滑床側以上の高低差だが、索道とインクラインを複数経由して、900メートル近い標高差を克服した。大正十二(1923)年に軌道が完成し、トロッコで丸太の搬出が始まった。一連の設備は、当時四国でも最先端のもので、それまで現地加工していた材木が、原木のまま、格段に能率よく宇和島まで搬出されるようになった。これ以後、立木の払い下げをやめ、滑床山での事業は営林署直轄事業となった。材木問屋に雇われていた作業員は引き続き営林署で雇われ、作業に従事した。

 こうして滑床は木材の一大産地となった。渓谷には事務所が置かれ、住み込みの作業員やその家族、商店が集落を作った。多いときで、200人の人夫が滑床で暮らしたという。しかし、昭和八(1933)年頃には伐れる木が枯渇し始めた。それで残り2年を目処に滑床から撤退し、下流の目黒山に事業を移動することになった。昭和十(1935)年に予定通り滑床山での事業は終了し、軌道は撤去された。その当時、すでに地蔵峠(目黑峠)を越える車道(現在の愛媛県道8号線西土佐松野線)が開通していた。そのため伐採地から麓への搬出は軌道が使われたが、土場から宇和島への輸送はトラックが使われた。それで峠越えの搬出路はお役御免となった。撤去されたレールや設備の一部は目黒林道の建設に使われた。なお戦後に、若山のインクラインの下部からから八幡山方面へ、八幡山支線が新設されていることから、全線の廃止ではなく、若山インクラインから滑床渓谷までの廃止だったようである。上記の通り、宇和島側の山は藩政期からの林業地なので、滑床での事業終了後も軌道に利用価値が残っていたとしても不思議ではない(さもなくばまた敷き直したということになる)。全線は昭和三十九(1964)年に廃止された。八幡山支線跡は、昭和四十年代に林道(自動車道)の用地に転用された。

地図

 路線の概要は次のとおりである。起点は、野川にあった土場である。ここからは直接インクラインが接続しており、標高250メートル付近まで一気に登っている。そこから平坦な軌道が始まり、等高線と並行するように徐々に標高を上げていく。尻割山から続く大引尾根を越え、藩政期からの林業地である若山に入る。そこで一旦スーパー林道と重なるが、程なく第二のインクライン跡に着く。このインクラインは短く、50メートルほど標高を上げる。また少し軌道があるが、長谷沿いに少し入ったところで行き止まりとなる。そこは索道の発着場であり、一気に標高850メートル付近まで登っている。そこで極短い平坦な軌道を介し、第三のインクラインに接続する。短い間にインクラインと索道が連続するところから、いかに標高差が大きいかがわかる。

 第三インクラインの上端は猿のコルの少し北であり、かつて六角堂と呼ばれていたようだ。それからまた水平軌道となって梅ヶ成峠に至る。峠にはやや深い切り通しがあって、そこを抜けると分水嶺を越え、滑床渓谷に入る。"肩の尾根"と呼ばれる稜線の下を、高月山方面に向かって微小な登り勾配で進んでゆく。西高月山(通称。梅が成の四等三角点がある1054mの山)を少し過ぎた所まで行くと、そこには渓谷の谷底まで一気に下るインクラインがあった。通常のインクラインは、荷物の自重を利用して、高所から麓とへ下ってくる(順送式)が、このインクラインは谷底から山の上まで丸太を積んだトロリーを引き上げる(逆送式)ため、電動だった。

谷底へ降りた軌道は、すぐさま目黒川を跨ぎ、河の右岸にわたる。その先は、複数方向へ進路が分岐するが、支線ではなく、搬出が進むに連れ、何度か終点が変更になったものだと思われる。右岸側(終点側)に残る橋台は上流側へ屈曲しており、最初期は上流側へ折り返していたものと思われる。目黒川と二ノ俣の別れ(奥千畳付近)まで平坦な道が続いており、最初期はその周辺の標高の低いところの木を搬出していたのではないかと思う。コレが第一の終点である。

 奥千畳付近の搬出が一段落したあと、路線は高所に延伸されたようで、二ノ俣と三ノ俣の間の谷にはインクラインの跡が残っている。標高差は50~60m程度と思われる。登り切ると、二ノ俣の右岸側を遡っていく。やがて、地形図上で753mと表示されている場所に着く。ここで二ノ俣は二手に分かれるが、地形図には支流の方は記載されておらず等高線から谷だとわかるのみである。その二又の間の尾根に、第6のインクラインがあった。長さは第5インクラインと同じか少し長いくらいだったと思われる(自分の体感的に)。登りきると、そこでも二手に分かれていたようだ。西へ分かれた軌道は、しばらく斜面沿いに進み、支流を渡ったところで途切れているようである。反対側も同様で、二ノ俣を越えたところで途切れていた。延長も双方似たようなものではないかと思う。これが第二と三の終点である。

 目黒川を渡ったあと、上流方向に行かず、下流方向へ行く軌道もあったようだ。この軌道は藤生滝方面へ向かっており、旧トロッコ道として知られている。ただ、終点の場所につては少し疑問がある。 八幡山支線は、若山のインクライン(第二インクライン)の下から北東方向に伸びていた。その大半がスーパー林道の用地に転用されている。八幡山(828m)の北西が終点だったようだ。

 滑床林道は、古い台帳が行方不明にでもなっていたのか、林野庁のwebページに有る国有林軌道の一覧表には、長らく野川から若山までの軌道(4.4km)と八幡山支線しか記載されていなかった。例えば平成28年のデータではそうなっている(新しい版ではもっと伸びている)。そのデータを利用していると思われる様々な廃線地図も、当然それに沿った描かれ方をしている。自分はその当時、「滑床の名を冠している割に、滑床渓谷まで行かないなんて、変だな」と思ったが、すぐ探索する予定もなく、深堀りすることもなくそれっきりだった。それから年月は流れて令和、高知県内の手近な軌道も探索が済み、徐々に遠方に触手を伸ばしていた頃、なんの気なしになしに滑床林道の資料を集め始めた。この頃には、滑床渓谷に旧トロッコ道と呼ばれる道があり、実際に歩いてみた人がブログで紹介していたのを知っていたので、この2つの関連を調べてみた。すると実は滑床林道は峠を越えて渓谷内まで降りてきており、そのために索道やインクラインを何本も駆使していて、自分の想像をはるかに超えるスケールだったことを知った。そしたら俄然興味が湧いてきて、今すぐにでも現地へ行ってみたいと思うようになり、その月の終わりには早くも宇和島に出かけていったのであった。

参考文献:宇和島市史、愛媛県史近世下、愛媛県史地誌Ⅱ、愛媛県史社会経済2農林水産、松野町文化的景観調査報告書-目黒の農山村景観-、滑床の自然と探勝、高知営林局史、高知林友367号(昭和三十二年七月号)

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説明  時は2023年12月29日、午前9時半頃。自分は自転車を漕いで宇和島市内を移動していた。やや時刻が遅いのは、やはり高知の真ん中辺りから宇和島までは距離があって時間が掛かったこと。先にスーパー林道へ行って、軌道との出合いに車を駐め、自転車で市街まで降りてきたことによる。ゴール地点に自転車を先行させておくことはちょくちょくやっているが、今回はスタート地点が住宅地で駐車場所が心配だったので、車をゴール地点において、自転車でスタート地点に移動するという、いつもの逆をやったわけだ。目指しているのは、宇和島城からはほぼ東方向にある野川地区である。今日ではだいぶ住宅が侵食してきているが、旧版地図や過去の空中写真を見ると、当時は田畑が広がる中にポツポツと人家がある、郊外の農村の集落だったようだ。
説明  やがて辰野川をわたり南岸へ。加茂橋と銘板が付いたこの橋は、思ったよりは新しくて、昭和8年の竣工であった。一応戦前の橋で、伐木の搬出が真っ盛りだった頃の竣工である。ひょっとしたら、この道を丸太を積んだトラックが行き交ったのかもしれない。その重量で橋の老朽化が進んだので、永久橋に架け直されたのかもしれない。そんな歴史を空想してみた。
説明  南岸の道路との合流は丁字路になっている。その突き当りの丘に営林署の作業所や職員の住宅があったそうだ。今は普通の住宅地になっていて、当時はなかった道路が通っていたりする。搬出が行われていた頃は、トラックに積み替えたり、一時的にためておく施設があったはずだ。
説明  上の説明の通り、土場から直接インクラインが接続していた。尾根に高圧線鉄塔が見えるが、あの尾根にインクラインが敷かれていたことを、事前の下見にて把握済みである。ちなみに今回は、下見から最初の調査までたったの一週間という、スピード調査であるため、記憶はバッチシだ。
説明  小川の左の小径から山に入る。
説明  登り始めてすぐ、大量のソーラーパネルが設置されているのが目に入った。2017年頃はまだ空き地だったようだが、いつの間にか買い上げられて太陽光発電所になってしまったらしい。
参照:気功的整体師の奮戦記
(https://monme50.livedoor.blog/archives/54732067.html)
説明  立入禁止になっていることを危惧したが、中央に道が残されていた。ここって公道なのかな? 掲げられている標識によると、有限会社丸和第64野川森太太陽光発電所というのが正式名称らしい。運転開始は2018年末となっている。上のブログ記事は結構ギリギリの訪問だったようだ。
説明  なお上記記事によれば、敷地には古レールを並べて作った橋が架かっていたようだが、場所が間違えていなければ撤去済みである。
説明  ソーラーパネルの間を抜け、道なりに進んでみる。
説明  意味深な溝と農業用のモノラックが現れる。カメラ不調につきピント甘い。
説明  右下の棒はレールかな? 完全に「鉄のミルフィーユ落ち葉添え」と化している。
説明  ヤブが薄くなるところまで進んでみると、モノラックに沿ってきれいなスロープ残っている。疑いようもない、インクラインの跡だ。

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