
モノラックに沿ってひたすら登る。土場から直接インクラインが出ているのは、西条市の西の川林用軌道を思い出す。どちらも地形が急峻で急速に標高が上がるところが同じだ。地面には樹脂製のステップが埋まっていて、何かの道に使われている模様。

少し登ると開けたところに出た。道路も登ってきている。畑でもあるのかな?

やがて倒木なんかもあったりして、道としてはあまり使われていない感じ。でも黒い階段は続いている。

更に登っていくと、高圧線の鉄塔の横を通る。黒い階段はどうやら四電の巡視路だったらしい。

案の定、鉄塔から上はシダが強く繁茂していて、道が狭まってくる。階段もなくなった。隣には相変わらずモノラックが並走しているが、埋もれて見えなくなっている。長らく使われていないようだ。なお、おそらくこの付近が中間点だと思われる。行き違いのため膨らんでいたはずだが、こんな状態では確認しようがなかった。

そこから少し登ると、宇和島の町並みと宇和島城が見えた。城を見ながらの仕事も乙なものかもしれない。江戸時代の領主様も、丸太に車がついて山を駆け下りてくる時代が来るなどとは、予想だにできなかっただろう。

シダが薄くなり、再びレールが顔を見せる。

登り始めて20分くらいすると、両側が石積に変わった。

レールがぐにゃあと曲がって水平な築堤になった。

ここがインクラインの終点のようだ。モノラックのレールも終わっている。京都大のデジタルアーカイブに、この付近で撮られたと思しき写真が公開されている。他の場所の写真もある。掲載許可を取るのがめんどいのでココには載せないので、気になる人は自分で探してほしい。
トップページから検索と進んで、「滑床山」で検索するといくつか出てくるはずである。他に、横荒山(伊尾木林道)や魚梁瀬の写真も少量あった。

終点直前の築堤。

築堤を抜けると左に旋回し奥へ向かっていた。周囲は鬱蒼としている。モノラックが残っているということは、廃止後は果樹畑なんかになっていたんじゃないかと思うが、今ではその面影もなく、たくさんの木々で埋め尽くされている。道を塞ぐように倒れている木は非常に太く、それなりの樹齢だと推察する。現役時代からここに植わっていたのだろうか。

周辺を少し探ってみるが、他にめぼしい遺構は見つからない。ないと言えば、モノラックの車両も見当たらない。麓にはなかったし、上にもない。まさか途中のシダの中で立ち往生しているわけでもあるまい。車両がないということは意図的に撤去したということであり、二度と使うことがないということだろう。果樹栽培に挑戦したが立ち行かず、撤退したのだろうか。なら、雑木の中にはミカンの木も混じっていたのだろうか。

奥の方へ移動してみる。

細い木が林立している。放棄された耕作地に種が落ち、二次林となった模様。この付近は斜面の中腹にありながら、意外と平地が広がっている。ひょっとしたら、こっちの広場が土場の本体だったりするのだろうか。

ところで、この写真を見たことがあるだろうか。
Q.こいつをどう思う?
A.すごく、ゲテモノです。
大型バイクを改造した牽引車である。「高知営林局史」にも同じ写真が掲載されているので、この手の本をよく読んでいる人には、見たことがある人もいるかと思う。「製品生産の変貌」にも、別の機会に撮られた写真がある。キャプションには「宇和島署管内」としか書かれてなく、どこの林道かわからなかったが、滑床林道(ココ)で使われたものだったようだ。撮影場所は分からないが、右上にワイヤーっぽいものが見えるので、ひょっとしたらインクラインの頂上側から出発するところなのかもしれない。これはもちろん正式(制式)な機関車ではなく、滑床事業所の技術者の謹製である。高知林友昭和七(1932)年十月号(通巻150号)に「オートバイ使用空トロ曳上に就て」なる記事があり、制作記と使用感が簡単に紹介されている。もともと滑床では、空トロの引き上げには犬が使われていた。黎明期の森林鉄道では、犬は珍しい存在ではなかった。しかし、非力で作業効率が悪い割に餌はよく食うので、予算を圧迫する一因でもあった。滑床では昭和五年に馬を導入し、多少の経費削減に成功するが、それでは満足できず、オートバイを改造して簡易機関車に仕立てることを思いついたわけである。ベースとなったのは三年落ち中古のハーレーだそうである。具体的な型式が記載されてなく、自身の知識もなかったが、画像検索で昭和初期のハーレーをひたすら探してみた所、1920年代の主力モデルだったJD型に似ていると思った。写真の通り、前タイヤを取っ払って鉄車輪が取り付けられている。後ろ半分はバイクのままで、後ろタイヤがレールの間の地面を捉えて進む。これで1トンの荷物を引いて半分の余力を残しており、まずまずの高性能だったようだ。なにせ、1000cc超の大型バイクである。特にゴムタイヤで走行することから、空転にはめっぽう強かったようである。宇和島署の技術者はこれに味をしめたのか、その後の目黒林道ではゴム輪機関車という珍車を生み出したりなんかもしている。ちなみにはトリミングされている上に裏焼きされてしまっているようだ。
高知林友昭和七年十月号より引用。

インクライン上の広場には、燃料庫や備品庫を兼ねた簡単な車庫と、木製のターンテーブルが設置されていたようだ。これらの遺構は残っておらず、ただ荒れ山が広がるのみである。

やがて平地は終わり、斜面を進む一本の道になる。その直前に上から山道が降りてくる。この先は林道になっているようだ。

しばらくは景色の変化はないようだ。車道化されているので広い道幅が続く。

序盤だけかもしれないが、勾配は結構急に見える。写真の場所がそうかは分からないが、上記の林友の記事によれば、最も急な勾配は1/15で、使い慣れたパーミル表記なら66.67‰である。碓氷峠と同じだ。と言うとかなりの急勾配に聞こえるが、軌道の第ニ制限では1/12(83.3‰)まで許容されるので、まあまあ(?)の勾配。

途中、何度も林道と合流したり分岐したりする。

しかし、やがて道幅が狭くなった。この付近は車道に転用されていないようだ。

石積が残る。軌道時代のオリジナルかな?

軌道の単独区間に入っても、ちょくちょく分かれ道が現れる。赤色立体図を見ると、この辺の山の斜面には結構な密度で道が走っている。あからさまに太いのは後年出来た車道だろうが、それ以外の徒歩道と思われるものも多い。これも昔の徒歩林道だったりするのだろうか。それか、市街地からほど近いので、柴刈りに行くための道が残っているのか。

谷に橋台が残っていた。滑床の初橋台だ。

反対側も。

橋台の谷を境に軌道は北へ向かってゆく。

路体の石積み。

似た景色が続く。

青いネットがずっと続いているのは何だろう?