高知市から西方約16キロ、仁淀川流域6市町村のひとつ。キャッチコピーは「日本の、高知の、ほどよい田舎」。確かに2ケタ国道が通っていて鉄道駅もあるし、高知市から近いとも遠いとも言えない絶妙なところにあるし、それでいてそこそこの田舎だしと、「程よい田舎」と言うのも言い得て妙か。近年シュガートマトが特産品となっており、村産トマトを使ったオムライスで村興しを図っている。 日高村発足までの歴史は次の通り
日下村日高村の南半分の大半を占める。日高村役場があり、行政やサービスが集中している。地名には諸説あるが、氏族の日下部氏に由来するのではないかというのが有力。もっとも日下部氏に関する伝承はこの地域には残っていないらしく、推測の域を出ない。古くは久佐賀、久坂などとも表記された。東部の下分地区にある小村神社は西暦587年の創建と伝わっており、日下の歴史もそのときに始まったと考えられている。 能津村村の北半分を占める。ほぼ全域が仁淀川に面していて、役場周辺(日下)とはまた印象が異なる。地名はこの地域に築城し居住した能津氏によるとされている。町田病院初代院長で精華園創設者でもある町田旦龍氏の出身地でもある。 加茂村佐川町と日高村に跨っているのは分割されたため。旧加茂村立の小中学校は、今となっては珍しい組合立の学校として残っている。村名は賀茂神社に由来する。 日高村が出来るまで昭和28(1953)年10月に高岡地方事務所にて、高北地域周辺の町村を対象とした合併説明会が行われた。この時はまだ動きはなかったようだが、12月11日には地方事務所の斡旋もあって、日下、能津、加茂、川内の四村による合併に関する協議が始まった。このうち川内村は、当初より伊野町からの合併の誘いも受けており、そちらへの合流が確実となったため、翌年1月にはこのグループから離脱している。それ以後、3ヶ村による協議が続けられることになる。 同じ頃、西の方では高北市(仮称)構想が持ち上がっていた。佐川町、斗賀野村、尾川村、加茂村、黒岩村(共に現佐川町)越知町、大桐村、横畠村、明治村(共に現越知町)が合併し、巨大な市となる計画であった。日下村にも誘いはあったが、日下と能津、加茂の3者による合併を理想としており、誘いかけには感謝を表しつつも参加には至らなかった。またこの構想自体、越知町が反対し脱退したことでご破算に終わった。高北市構想が頓挫した後、昭和28年の暮れ頃から、佐川町と尾川、斗賀野、黒岩、そして加茂の1町4村による合併が具体化してきた。年明け1月中旬ごろから各代表者が集い、新たな合併協議を始めた。この5町村による合併については、各村の感触も良く、合併の実現に向けて大きく弾みがつくことになった。そして「(昭和29年)3月初旬にこれら(合併)の事について各町村議会で議決すること」という誓約が交わされた。このことから加茂村は西側との合併に積極的だった事がわかる。だが、日下村と能津村との合併協議も続いていた。それは懸念材料として上がっていた。 西側との合併に積極的だったのに、東側との協議が続いていたのはなぜか。まず、加茂村は佐川町にほど近く、行政的なつながりが深い。一方、日下村とも日下川流域の村という接点があった。 この日下川は河川勾配がゆるく、水捌けが良いとは言えない川であった。梅雨の時分に大水が出るのはほぼ毎年のことであり、日下村の村民は大いに泣かされていた。加茂村も、東部の岩目地地区と九頭地区(以下東部)は日下村と大して標高差がなく、ここも日下村と同様に水禍に悩まされていたのである。そのため、低地に農地を持つ東部の農家を中心に、「日下村と合併し協力して治水対策に当たるべし」という声が高まったのである。 懸念は当たった。佐川か日下かで意見が別れ、対立してしまったのである。当然議決どころではなく、3月という約束を果たすことができなくなった。佐川町は加茂村以外の3村をまとめてさっさと新佐川町を結成してしまった。加茂村が遅刻をしたわけだから仕方がない。置いてけぼりを食らった形となった加茂村だが、なお村内の意見はまとまらないでいた。議論はいくども繰り返され、行政からの介入もあったが、時間は刻々と過ぎていった。5月中頃には、東部の分村もやむなしといった論調が見られ、日下村らにもその可能性が伝えられた。日下、能津村は既に首を長くしており、直ちに了解の意思を加茂村に伝えた。しかし当の加茂村で村内の意見がうまくまとめられず、その上7月下旬頃になって地元婦人会や青年団から分村に反対する宣言書が提出されたことにより、板挟みの状況に陥ってしまう。 こうなると日下と能津も痺れを切らしたようで、加茂村を保留にしてにして二者よる合併協議を進め始めた。もとより立場の固まっていた両者であるため進展は早く、9月には新村名も決定した。両側からスカンを食うことに焦ったのかは知らないが、ついに加茂村の東部が加茂村から離別することを決断した。分村反対の宣言どこに行ったのだろう? 推測だが、「村議会の決定ではなく、その地区の住民の意向」ということで面目を保ったのかも知れない。ともかく、昭和29年10月15日、日下村、能津村、そして加茂村より分離した岩目地・九頭集落が一体となり、日高村は誕生した。「日」本の「高」知ということで、村名は日高村と決定された。 東部の分村によって加茂村は幾分と小さくなってしまった。東部の後を追って日高村と合併するか、分裂を決定的なものとして佐川町と合併するか、議論は引き続き続いていたが、ジレンマは頂点に達していた。県からの介入や周辺町村からの呼びかけも積極的に行われ、今こそ腹を決めるべき時であることは明らかだった。このとき佐川町への合併意見が大きかったため、ついに加茂村は佐川町と合併することを決意した。12月中旬の佐川町議会で加茂村の編入が正式に決定され、およそ一年遅れで誓約が果たされることとなった。昭和30年2月10日、加茂村は佐川町に編入され、その歴史に幕を下ろした。この時、入沢地区が日高村に、加茂村から分離した岩目地地区の一部が佐川町へ編入された。こうして現在の日高村ができた。 (参考資料:佐川町史、佐川郷史、日高村史、日高村制施行50周年記念誌、高知県市町村合併史、角川日本地名大辞典高知県版) もどる |