高知市の西隣。仁淀川の下流部にあり、北西方向から南東にと斜めに長い。主に仁淀川の左岸(東岸)に町域を持つが、右岸にもごく一部に町域が及んでいる。町の南東に市街地が集中しており、現伊野町役場もここにある。高知市内まで10キロとほど近く、主要国道、鉄道、高速道路が経由するため、高知市のベッドタウンともなっている。北西部は山あり川ありの豊かな自然美を見ることが出来る。 現在の伊野町の発足は1955年(昭和30年)1月1日のこと。それまでに以下のような経緯を辿っている
伊野町日本三大和紙の一つの土佐和紙の一大産地として栄えてきた歴史を持つ。川港があった仁淀川橋東詰から伊野大黒様(椙本神社)までのゆるい坂の両側には紙問屋やその倉庫が並び、問屋坂として知られていた。吾川郡一の都市で郡制時代は郡役所も置かれていた。 宇治村伊野町の最東端。同じ仁淀川流域ながら元は土佐郡に属し、高知市とのつながりが深かった。山を挟んだ南側(天王ニュータウンの東半分)も宇治村の範囲だった。旧名である宇治村の名より、その以前の名称である枝川のほうが有名な気がするのは気のせいか。宇治山田の伝播地名であるとされている。 八田村伊野町の最南端で春野町に接している。小さな農村だったが、昭和の末期からニュータウンの造成が始まり、八田村時代より大幅に人口が増加している。天王ニュータウンの西半分は元々八田村の範囲。八田という名前の由来は、川端を意味する端処の当て字という説や、吾川郡司秦勝国の郡衙あるいは住居地にちなみ、八田を秦とするという説がある。 川内村仁淀川の西岸にハミ出しているのが川内村。元は高岡郡。こちらも川内というより波川とよんだほうが通じやすい。仁淀川が大きく蛇行しており、その内側にあることが村名の由来だと思われる。 神谷村伊野町中心部から北西方向にある。元々は小さな村だったが、十六村の一部を取り込んだことで巨大化し、砂時計のような面白い形状になった。村名の由来は巡錫の弘法大師が開いた神の谷にちなんでいるという。 三瀬村鷹羽ヶ森の周囲を北から時計回りに西南西の方向まで取り囲んでいる。"瀬"の字のつく三つの村が合わさったために三瀬村。とは、この地域出身の親戚談。 十六村16の村が集まったために十六村と名付けられた、三瀬村以上にストレートなネーミングセンスの村。昭和中期に有料観光地として開発され、四国一の高さの歩道吊橋で名を馳せた中追渓谷も、元は十六村。 伊野町が出来るまで伊野町は、戦後のシャウプ勧告に基づいて出された町村合併促進法を根拠に合併は行われた。一つ例外なのは、戦前に十六村が4分割の上、周辺町村に編入されたことだ。十六村は元土佐郡に属しており、現在の高知市、鏡村、伊野町(旧伊野町、神谷村)に跨っていた。伊野町には槇、神谷村には成山、中追の地区が編入された。昭和3(1928)年のことだった。時は流れて昭和28(1953)年10月、町村合併促進法が制定され、後の昭和の大合併が始まった。吾川地方事務所の仲介もあり、伊野、宇治、八田、川内の一町四村による合併交渉が始まった。伊野町は高知県下の昭和の大合併で、その先陣を切った自治体である。しかし、当初から伊野町の方向で意見が固まっていたわけではなかった。
宇治村では、当初は村の総意とも言わんばかりに高知市に注意が向けられていた。宇治村は伊野町とは平野続きになっているが、伊野と同じ吾川郡ではなく、山をまたいで土佐郡に属している。宇治村だけが山を挟んで土佐郡に属していたのは奇妙に思えるが、とにかくそのことが東への帰属を当然視させていたのか、しばらく高知市との会合も並行させている。 こうした状況ではあったが、宇治村では宇治川の氾濫という共通の悩みを持っていたわけだし、八田村も奥田川の改修工事を抱えており、財政面の限界を痛感していた。川内村は不明だが、財政的に余裕のある伊野町に付きたいと考えるのは自然なことであるし、いずれも伊野と合併できない、したくないというわけでもなかったようだ。伊野町には合併による負担増を懸念する意見も一部にあったようだが、これも合併自体に反対という姿勢ではなかったようだ。むしろ対等合併ということで広い範囲から意見が検討されており、地方事務所の推進もあって協議は急速にまとまっていった。奇しくも当時、地方事務所の廃止が決定されており、最後の大仕事ということで特に熱心だった。合併交渉は順調に進み、2月上旬には各町村で合併の件について議会で採決が採られ、いずれも可決された。そして3月1日伊野町が発足した。 神谷村と三瀬村については、並行して協議が行われていたが、一次合併には間に合わなかったようだ。 神谷村では、伊野町と合併する案と、日下能津三瀬の3村で合併するという意見があったが、村民は伊野町を選択した。2月上旬には村議会でその動向が決定されていたが、時期的なズレから合併に乗り遅れていた。一時は議会の辞職騒ぎにまで発展したが、周囲の遺留で撤回され、一転合併の実現に邁進していくことになる。伊野町側では、議員から若干の編入反対意見もあったが、賛成多数で神谷村の編入を決め、10月に希望を叶えた。 三瀬村は、村議会での議決自体が昭和29年6月と、他の町村よりも出遅れた感があった(仮に決定が早くとも、神谷村の参加がなければ飛び地合併ということになるが)。伊野町議会では神谷村の時と同様に賛否両論あったが、「三瀬村の編入は大きなプラス。将来には日高村も合併して大きな町になるのが望ましい」などと大きな野望も見せている(日高村の合併は平成の大合併においても果たされなかったが)。ともあれ、11月の議会で三瀬村の編入は可決され、翌年1月1日から伊野町に編入される事になった。 (参考資料:伊野町史、高知県市町村合併史、角川地名大辞典高知県版) もどる |