高知市から南西約35キロの距離(市役所間)。高知県東西のだいたい中心にある。東西に長い市で、市街は西部に集まっている。東部は長大な浦ノ内湾が広がり、その地形は口を開けたワニのようにも見える。ほぼ全域が太平洋に面しており、長大な海岸線には須崎湾、野見湾や横浪半島など、特徴的な地形が多い。それぞれは須崎湾県立自然公園と横浪県立自然公園に指定されている。須崎湾は水深が深くて狭長なことから、天然の良港として古来から親しまれている。近代以降も重要港湾に指定され、工業の好適地として大手企業の誘致に成功している。とは言え、そういった地形は津波の被害を受けやすい土地でもある。有史以来幾度か津波の襲来を受けており、1707年の宝永地震では400名余の犠牲者が出ており、その件の教訓を刻んだ石碑が今日に残されている。他方、内陸部も広く、農地ではミョウガ、キュウリ、シシトウなどの栽培が盛ん。山間の吾桑地区では桑田山の雪割り桜、上分や新荘地区では新荘川の清流を見ることが出来る。新荘川はニホンカワウソが最後に確認された川として有名で、カワウソをモチーフにしたゆるキャラ「しんじょう君」人気もあって、一躍その名前を全国区にした。 現在の須崎市は明治時代以降、次のような経緯を辿っている
須崎町面積的には今は大きな須崎市だが、元の須崎は城山の南側の旧市街がその全てだった。しかしながら、明治の町村制導入時から町制を敷いていた、高知県では数少ない自治体(他は南国市の旧後免町のみ)だった。その繁栄は須崎港による恩恵である。須崎湾は水深が深く、入江の奥にあるため波も穏やかで、良港として古くは鎌倉末期からその名を知られていた。良い港には船が集まり、船が集まる所には物や人が集まった。ことに須崎は、中村街道の途中にあり、そこから大洲(愛媛)や佐川越知などの内陸方向への街道も伸びており、旅行者や物資が通過する、この上なく発展しやすい立地にあった。当初は漁村の須崎も、徐々に廻船業者や和紙、木炭、海産品などの問屋が集まり、有力な商人を生み出した。大正時代には高知市よりも先に国鉄線が開通するなど、ある時期は時代の最先端を走っていた。無論、高岡郡で最大の都市で、郡制時代には郡役所が置かれていた。古くは洲崎とも表記し、地形的特徴から"すさき"という音が起こったのだと判断できる。なぜか海蔵寺山の西の斜面も須崎町に属していて、そこだけ現在も住所が違う。 多ノ郷村高知自動車道の須崎延伸以来、区画整理が進み、大手量販店が進出してくるなど発展著しいが、その付近はかつて多ノ郷村だった。蟠蛇ヶ森から浦ノ内半島の付け根付近まで、比較的広大な面積を持っていた。西側は比較的平地も多く、東部は野見湾などリアス式海岸が続く一帯である。須崎同様港湾を設けやすく、戦前には斗賀野の石灰鉱山から土讃線経由で大峰の岸壁までを結ぶ臨港鉄道が建設された。戦後は誘致した大手セメント工場が押岡地区に建設され、斗賀野の石灰で製品を作るようになったが、2000年代に斗賀野の石灰山が閉山となって、現在の調達先は不明。古くは大野郷とも表記し、おそらく字義通りの地名なのだと思う。 新荘村新荘川の河口部分の両側に村域を持つ。新荘川は村内を貫通しており川に沿って集落が点々としている。太平洋岸にも集落があり、久礼にほど近い安和地区は町村制以前に単独で村だった。中心市街は新荘川左岸の太平洋に面した地域にあり、須崎町の町街と連続している。西町地区(フジ須崎店付近)は新庄村の役場所在地。この中では唯一戦前に合併で消滅した。地名は古代の豪族津野氏がこの地に新しい荘園を起こしたことでうまれた。なお多ノ郷周辺が本荘である。 吾桑村地名は吾井ノ郷と桑田山の合体地名。桑田山というのは山の名前ではなく、蟠蛇ヶ森南東の斜面の通称。蟠蛇ヶ森北側の斜面から流れ出る桜川沿いの平地と、桑田山の斜面に人家が集まっている。太平洋に面していない代わりに蟠蛇ヶ森周辺からは石灰が採れたため、農業と石灰が村の主要な産業になっていた。土讃線の斗賀野トンネルを抜けてすぐに見える白石工業のプラント群は昭和初期から創業している。土佐市との境の名古屋坂には、明治時代に当時としては珍しいトンネルが開削され、見物人で大いに賑わったという。 上分村こちらも太平洋に面していない内陸の村。須崎市の西の端で、大野見村に接している。農業が主な産業で、新荘川の川漁も少々。ニホンカワウソが最後に確認された場所は、実は上分村役場付近。地名は津野新荘が上分と下分に分けられたことから。 浦ノ内村須崎市の東端で土佐市に潜り込むような形となっている。浦ノ内湾を取り囲む逆コの字型をしており、入り組んだリアス式の海岸がワニが口を開けたようなインパクトのある形状を作り出している。仏坂や鳥坂はかつての村境で、そこより東側の須崎市に属している部分が浦ノ内村の村域だった。横浪半島も村域に含まれるが、先端部の宇都賀山周辺は土佐市(旧宇佐町)に属している。主な産業は農業であり、意外にも漁業は下火だったようだ。海岸線の長さを考えると意外に思える。リアス式海岸を持つ横浪半島では、太平洋側に漁港をおける平地が極端に少ないのが原因の一つかもしれない。浦ノ内湾では、プランクトン量が豊富だったこともあり、明治期より真珠の養殖が行われていた。昭和中期まで地域の主要産業の一つになっていたが、生産過剰と水質低下により事業は衰退し、現在ではマダイ養殖などに変わっている。長大な内海ではマリンスポーツや魚の養殖が盛ん。これも地形の特徴が地名に現れている。 須崎市が出来るまで明治時代に各町村が発足して以降、しばらく目立った動きはないが、昭和に入って程なく新荘村が須崎町に編入された。須崎市史では合併の事実には触れていたものの、その理由についての記述はなかった。日米開戦直前という時期と須崎が防衛上担う役割を考慮すると、戦時体制強化のための合併だったのかも知れない。また時期は分からないが、多ノ郷村と吾桑村も戦時中に合併が画されたようである。しかし須崎市史によれば、両者はそれを突っぱねたようである。当時の軍部の方針を突っぱねられたというのが正直驚きである。お上に口利きできる有力者でもいたのだろうか。ともかく須崎地区の町村数は、戦前に1町4村に減少した。 戦後、地方自治のあり方が変化し、種々の公共サービスが地方自治体の手に委ねられることになった。その財源捻出のため中小の自治体を合併させる事になった。政府は昭和28年10月、町村合併促進法を制定する。後に昭和の大合併と呼ばれる全国的な市町村の合併劇が始まった。 須崎地区では、以前から隣接する町村で合併し市制を施行するという件は懸案事項として既に上がっており、10月の法律施行でその機運が高まることになった。11月下旬、須崎町は合併促進特別委員会を結成し、各村に合併を呼びかけた。どの村も将来的な市制については否定しなかったものの、基本的に関心が薄く、そのうち協議は中断するようになった。特に多ノ郷村の腰が重く、須崎町はここ3年財政赤字に陥っている。誘いに乗って吸収合併という形になっては、後々面白くない。須崎港を使えないなら自力で野見湾に港を作る。と発言しており、反対の声はなかなか大きかった。こういった状況に、やがて県や地方事務所が慌てだした。須崎地区は高知市の次に市制に適していると目されており、もし須崎の市制が頓挫するなら県としての面目が立たない。他の地域を差し置いても、須崎の合併は実現せねばという雰囲気だった。こうして行政の介入が活発になり、各村もいよいよ重い腰を上げざるを得ない状況になった。 年が明けた1月初旬に、5町村による合併研究会が結成された。各村単位でも合併委員化を組織したほか、各町村から4名の代表者を選出し、専門委員会を立ち上げた。数回の協議を経た1月末、自治庁へ提出する書類を早急に作成し、上京する県職員に委託することが協議で提案された。須崎町といち早く賛成派に回っていた上分村は「一応提出するべきである」としたが、吾桑多ノ郷の両村は「民意を確かめる前に係る書類を提出することは軽率であり住民の誤解を招く」として反対を表明した。数日後に合併研究総会が開かれたが、吾桑と多ノ郷は前回同様反対した。また浦ノ内村は村内の特殊な事情を挙げ、態度を保留した。こうして意見の不一致が明らかにな現状市制の実施は不可能であることが判明した。 2月はじめ、書類提出の期限にはまだ猶予があるため、協議を継続することで各町村で合意した。自治庁も須崎の市制には好意的に見ていることもあり、地方事務所が3月末のギリギリまで仲介を行うことになった。また民間レベルでも促進の運動が起こり、老若、町村の別を問わず、陳情書の提出や、趣意書の作成、配布などが行われた。そんな動きの中、2月中頃、多ノ郷、吾桑の両村から重ねて「時期尚早」との意思表示があった。これらの村内に現状を維持する声が大きかったのは一つの事実である。吾桑村と多ノ郷村は純農村で、須崎とは全く形態が異なる運営が行われている。財政的にさしたる不自由もなかった。加えて多ノ郷は、工場誘致に適した土地と港湾を抑えており、合併には特別慎重な立場だった。さらに戦時中の合併の強要を頑として受け付けなかった根強いかつ複雑なわだかまりがあった。他には財政問題とか、そもそも須崎町に魅力がないのではという声もあった。理由はともかく、鍵を握るのは多ノ郷村であり、現状では市制は事実上不可能な状態にあった。態度を保留としていた浦ノ内村も、多ノ郷村が反対していることを理由に上げ、一旦白紙に戻して冷却期間を設け、将来再出発すべきだとして、事実上の反対を表明した。 状況が変わったのは4月末だ。多ノ郷の村長が3月末をもって辞任したことにより、村長選が行われることになった。村議会の推薦を受けて立候補した前助役が無投票当選すると見込まれていたが、後日、青年層の支持を受けた前村長が加わり、投票に持ち込まれた。結果、前村長が当選し、前助役を推薦した村議会の面目を潰す結果となった。波乱の内に村議会は総辞職となり、議員は全員が入れ替えとなった。こうして新しい体制の中組織運営が始まったが、新村長は「民意を聞いた上で」とした上で市制実現に努力すると決意を表明した。 こうしてようやく事態は前進し始めた。7月初旬に次の点が決定された。
1.対等合併とする 8月27、28の両日中に各町村で議決が採られ、これを可決した。須崎、吾桑、上分、浦ノ内は全会一致だったが、多ノ郷は16:5と若干の反対が残り、最後まで話題に事欠かなかった。9月3日自治庁あてに申請書を提出、8日に認可が下り、17日の県議会で合併案が可決され、須崎市の成立がほぼ確定となった。10月1日、前日に各町村で閉町村式を行った上で、多ノ郷第一小学校にて開庁式をあげた。 (参考資料:須崎市史、須崎市史平成二十六年度編、高知県市町村合併史、角川日本地名辞典39高知県)もどる |