上関林用軌道 その1




 上関林道は嶺北地区の林用軌道群ではマイナーな部類だろうと思う(自分も森の轍で初めて知った。旧版地図にも、すべての版を確認したわけではないが、記載はなかった)。嶺北地区は高知県内で林用軌道の密集する地帯の一つだった。本山町の白髪山の麓には、林用軌道の路線が2つあった。山の西側、早明浦ダム近くの汗見川沿いには、白髪林用軌道(汗見川森林軌道とも)が敷設されていた。これは2010年に紹介した。一方、山の東側、行川(なめかわ)沿いに運行していたのが今回紹介する「上関林用軌道(行川森林軌道とも)」である。行川は本山町の主だった河川としては最も東側に位置し、東へもう1.5キロほど行けば大豊町という位置にある。開通年は不明で、戦後まもなく全線廃止されている。起点は行川の左岸を450mほど遡った、下関地区にあった貯木場である。行川の左岸をひたすら遡り、11キロ先の蛇野(はめがの)地区の上の斜面まで続いていた。上関林道という名前ではあるが、行川の西側が上関地区、東側が下関地区であり、路線の大半は下関地区を通過している。終点の蛇野にはインクラインがあり、更に上部軌道が敷設されていたようだ。上部軌道は等級の低い作業軌道と思われ、ルートや延長などが不明なので、今回の探索は予定していない。今回はこの11キロが調査の対象となる。道中には一本のトンネルと一ヶ所のつづら折れもる。二日あれば歩き通せる距離であるが、探索のし甲斐はそれなりにありそうである。探索は2018年正月。F氏との行動である。



 かつての土場跡と思われる田んぼ。結構広い。見てのとおり、今は何もない。ただの田んぼである。直ぐ側の道沿いには行川森林鉄道なる標柱がたっている。コレもまた初めて聞く名前だった。なお、同じような標柱は、白髪林道にも(探索当時はなかったが、後に)建てられている。なお、白髪のそれには「汗見川森林軌道」なる名前が刻まれていた。



 土場を出た軌道は左岸をさかのぼっていく。舗装された車道となっているが、対岸にもっと広い道があるので、この道路を通行するのは沿道にある畑の主くらいだろう。



 しばらく進むと行川を渡る車道橋がある。右手には簡易水道の施設があり、その先は民家に続いている。その民家の登り口の手前で左を見ると、果樹の間を進む未舗装の道がある。コレが軌道跡と思われる。軌道跡は果樹の間を抜けると田んぼの横を抜け、林の中に入る。車道になってからの時間が長いらしく、軌道らしさは有るような無いような。



 その林を抜けると、左画像の場所に出る。車道は直前でクランク状に曲がり、一段上の果樹畑で終点となっている。軌道跡は正面の藪の中である。ただし下記のように、この時点ではココが軌道跡だとは確定していない。




 余談であるが、行川沿いには古い農業用水路が残っている。所々コンクリートで補強されているが、藩政期に野中兼山が作らせた歴史ある施設だという。この水路、勾配も緩やかでカーブもゆるく、まるで軌道跡のように見えた。それで当初、この水路と軌道が同居していたのではないかと考え、AB間はこの井筋をたどっていた。

 しばらくいい感じに続いていたが、不意にF氏の「あぁっ」という無念そうな声が聞こえ顔を上げると、前方に急なスロープが現れた。ザンザンと水の流れる音も聞こえる。近づいてみると、そこは小さな尾根を越えるようになっており、前後に数メートルの高低差がある。自分たちの辿っていたものが、全くの見当違いだったと判明した瞬間だ。野中兼山の罠にかかり、一時間の努力が水の泡に消えた。AB間では、一部の写真の色味が違うことに気づくかもしれないが、この部分は帰路撮影したものや2019年末に撮影した写真で構成したもので、時系列順ではない。




 という訳で、見当違いの場所を歩いていた我々はB地点で立て直しを図った。「恐らく水路よりも低いところに軌道が敷かれていたのだろう」と結論した我々は、クランクを曲がらず正面の藪の中が怪しいと踏んだ。藪の中は平場が続いており、未舗装路の続きが藪化しているらしかった。藪は非常に濃密で前進が困難だったため、一段上の果樹畑を前進することにした。この果樹畑も大して広くなく、すぐ休耕地の濃いススキ畑に変わった。これではむしろ藪の中のほうがマシだったので、藪の中を枝を避けて前屈みで進んだ。すると藪の中で左画像の橋台を見つけた。この発見を以て、ココとココに続く果樹の間の未舗装路が軌道跡であることが確定した。
 軌道跡を特定したことで探索に弾みがついた。橋台をすぎると平場は杉林へと入り、藪も収まった。杉林の中は杉葉が積もりフカフカの絨毯になっていた。斜面には石積みが段々になっており、古い集落跡か棚田の跡のようだった。立派な石積みの路体や小規模ながら切り通しもあって、林鉄らしさが一層増してきた。



 しかし、盛り上がってきたところに水を差すように路体は大きく崩壊していて、行川へ降りざるを得なかった。行川はここで大きく弧を描いており、軌道は外側に敷かれているので、川の浸食で崩壊したようだ。崩壊が収まった後は石積みの路体が見えていたが、ひどく藪化しており、ココはまとめてスルーした。路体には石積みの暗渠も見えていたが、すでに用をなしていないようだ。



 林を抜けると耕作地に出た。畑と林の間に水路が走っており、暗渠が残っていた。軌道跡はそのまま 農道として使われており、途中からは軽トラの轍がはしる。しばらく行くと舗装路に変わり、合茶地区に入る。読み方がわからなくて「あいちゃ?」「がっちゃ?」「ガッチャマン?」などと言いあっていたが、"ごうぢゃ"が正解なようだ。合茶地区にはまとまって民家があり、右岸から道路橋が架かっている。橋は軌道跡より低い位置に架けられており、橋の横に路体が残っている。 石積みが残っていることから軌道跡だと判断できる。そのまま進み続けると橋が架かっているが、軌道時代の痕跡は見当たらない。その先、舗装路は右に折れており、その先にはトラックが停まっている。軌道跡は トラックの先に続いている。



集落の外れにトンネルが残る。トンネルの存在は以前から明らかにされていた(参照:http://yomoyamashop.com/00076/)ので、出発前からF氏とどの辺に残っているか予想しあっていた。自分はもっと山奥の方だと予想していたが、F氏はピタリと的中させてしまった。これには嫉妬せざるを得ない(ぱるぱる)。洞内は素掘りで延長は短く、入る前から出口が見えている。トンネルは一枚岩に穿たれているらしく、劣化や綻びは見受けられない。工事には難儀しただろう。馬蹄形ではないが天井はしっかりとアーチ型が見て取れる。天井付近には小さな穴が空いていた。ダイナマイトの装薬孔だろうか。地面には並行する二本の線があった。レールかと思ったが、ただの木の根であった。トンネルを抜けて反対側へ出られると思っていたのだが、出口に地面はなかった。斜面の上の方から小さな谷水が落ちてきており、築堤だか橋梁だかを行川に押しやったようだ。その向こう側も荒廃が進んでいる様子が見て取れる。正面突破は不能である。



 幸い、大きな迂回は必要なさそうだ。トンネルの真上を平場が横切っているのが見える。たぶん、序盤で間違えた兼山の罠水路だろうとピンときた。驚いたことに、兼山公の水路も手前で地中に潜っており、実際にトンネルと交差しているのは水路沿いの里道だけであった。この水路トンネル、幅も高さも大変狭く、どうやって掘ったのかと疑問が湧く。こんな狭い中匍匐前進でトンネル工事をするのは嫌だ。あるいは砂で埋まって見えないだけで、本当はもっと高さがあるのだろうか。
 トンネルの上からは軌道跡がはっきり見える。たまにトンネル内でイベントが開かれることがあるらしく、刈払など維持管理が行き届いているようだ。反対側まで行くと、トンネル出口が見える。入り口と比べると坑口の形がかなり歪だ。また出口の路体だか橋梁だかを洗い流したのは水路から出た水であることがわかった。(水門扉)が設置されている。 水路トンネルの入り口も同じところに開いていた。建造当時の姿だろうか。

 軌道跡は引き続き荒廃している様子が見て取れたため、DE間は水路沿いの里道から見下ろす形で調査した。ただトンネルの出口を間近で見るため、そこだけは接近を試みた。少し進んだところに軌道跡に降りられそうな 古い道のような痕跡を見つけたので、そこから軌道跡に降りた。ちょうどF氏が歩いている。軌道跡は 竹林と化していたが、所々 当時の痕跡のようなものが見える。やがて 出口にたどり着いた。
 その後の軌道跡はE地点に至るまでずっと荒廃したままだった。



 やがて前方に道路が見えてきた。右岸を通っていた町道が橋を渡ってきている。軌道跡は相も変わらず水路の下を走っている。F氏が歩いているところではなく、そのさらに一段下である。軌道跡はしばらく 町道と重なり、この先しばらく痕跡を表さない。




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