伊尾木林道久々場山線跡(1/2)

  ↑試験的にGoogle mapの埋め込み機能にGPSのログデータを重ねて表示させてみました(環境により表示に時間かかります)↑

 駄菓子の「くるくるぼーゼリー」を知っている(あるいは覚えている)だろうか? 子供の頃はあれが好物で、駄菓子屋では必ず一本は買い求めたものである。あれは捻ったチューブの中にゼリー飲料が入っているもので、端を切ってチューチュー吸い取りながら食べるものである。そのチューブがクセモノで、底のほうが小さく窪んでおり、食べ方が悪いのかその窪みの中に吸いきれなかったゼリーが微妙に残ってしまう事が多かった。そういう時は、その窪みをエイっと押しつぶすと、残ったゼリーが崩れて流れ落ちてきて、最後まで食べることが出来た。なぜこんな話をするのかというと、今回の探索もそうやって最後に残ったものを絞り出したような感じだったからだ(謎の表現)。
 伊尾木林道の久々場山線は、安芸市別役の川成地区から高橋川の上流のバシ谷という所を目指す、約六キロの支線である。かつて、伊尾木線及び別役線の調査中に立ち寄ったことがあり、この先へは約5年ぶりの訪問だ。と言っても、その当時は途中の土砂崩れで車両が乗り入れられなかったため、終点を見ずに引き返してきた。今回は状況はどうあれ終点を目指すつもりだ。と言っても大半が車道化されているため、途中で遺構を見つけることは難しいように思える。しかしSNAKE氏のサイトで公開されている路線図を見ると、終点部分に若干の続きがあるようで、この部分に希望を抱いている。

 A
 川成地区(伊尾木林道伊尾木線/別役線跡14のA地点)にて別役線から分岐する。
 左奥から手前に向い別役線跡の道路が走る。右奥へ向かうのが久々場山線である。分岐地点は急なヘアピンカーブになっており、車輪をきしませて通過するトロッコの情景が目に浮かぶかのよう。
 山手に残る石積みの擁壁は当時のものだろうか?
 ヘアピンの内側に資材置き場のようなところがある。そこにこんなものが残っていた。
 徐行標識である。昭和25年改正の道路標識令で定められた警戒標識のデザインに酷似しているが、徐行は制定されていなかったという。どうやら営林署が道路標識を真似て作ったものらしい。しかし、出来栄えはとても手作りとは思えない。道路標識メーカーに外注したのだろう。
 ヘアピンの目と鼻の先に沢が横切っており、橋が架かっているが、橋台も含めて全て作りなおされているようだ。
 軌道跡は車道化されており、体感では軌道跡の95%ほどが車道化されていると見られる。併用林道であり、一般車の通行は制限されていないが、進むに連れ舗装の傷みが激しくなり、気がついた頃にはダートに変わっている。
 B
 しばらく行くと大きな掘割がある。
 当然、軌道もここを通り抜けていたはずだ。車道化に当たり、山手を削ったと考えられる。見通しが悪く、カーブミラーが設置されているが、よほど運が悪く無いと対向車に行き当たることはない。
 切通を抜けた先。まだ伊尾木川沿いであり、別役線は左手の崖下を通っているが、標高差は急速に開いており、間もなく50mに達するだろう。
 C
 更に行くと、大きなトンネルが現れる。伊尾木川沿いから高橋川沿いに抜ける山越えのトンネルだ。
 銘板はなく名前がわからないが、ネット上では竹ヶ峯トンネルという名前で載っている。このトンネルの存在がしばらく自分を悩ませることになった。というのも、支線にしてはやけに長いからだ。
 トンネルをくぐらず、峠越えをしていたのではとも思ったが、そんな痕跡はない。路線の開設が戦後の比較的余裕ができた頃らしく、当初からこのような長いトンネルが存在したようだ。
 馬蹄形状はまさに鉄道トンネルといったところだが、建設当初からこんな形だったのかな?
 トンネルを出た所に分かれ道がある。かつてはこの先に小学校があったそうだ。そっちは門外漢なので行かなかった。
 トンネルを出た先。路面に轍が残っており、ダート野郎か林業従事者かはわからないが、ここを訪れる車両が少なくないことがわかる。
 D
 途中、桟橋になっているところがある。下を見なかったので痕跡が残っているか分からないのが悔やまれる。
 電柱の跡もある。
 E
 しばらく行くと広場に出る。5年前はこの広場の手前が崩落しており、車では先へ進むことが出来なかった。徒歩に切り替え先を目指してみたものの、時間不足で終点へたどり着くことが出来なかった。
 広場を過ぎると橋が架かっている。久々場橋といい、久々場谷を跨いでいる。
 その先、岩石に半ば埋もれた鳥居がたっている。久々場神社と書いている。地図にはない幻の神社だ。崩れてきた岩石に半ば埋まっているが、5年前の訪問時も既にこれに近い状態であった。
 神社を過ぎると状況が一変し、ヒトの頭部の大きさを超える岩石が多量に転がっている。土砂崩れによる通行不能状態が解消していることを期待していたが、別の崩壊に変わっただけであった。
 しばらく行くと、またも橋が架かっている。
 F
 銘板によると、"なかずはし"という名前らしい。
 橋の上には大量の土砂が溜まっている。大雨のとき、この橋を乗り越えるほどの水が出ることがあるらしい。
 橋を渡ったところは広場になっており、「安全四大基本を守ろう」という標語が掲げられた小屋が残っている。
 よく見ないでも大きく傾いていることがわかる。前回の訪問時はまだいくらか建物らしさが残っていたが、もはや風前の灯である。どうやら谷の水がここまで溢れてきたらしい。これほどまでの水量を生み出した大雨とは、どんなものだったのだろう。平成26年8月豪雨(またの名を2014高知豪雨)だったのかもしれない。そして、この建物の正体は風呂便所と考えられる。
 風呂便所があるということは、高い確率で宿直可能な施設(事業所とか)があったと考えられる。事実、谷沿いに更に大きな建物の基礎部分が残っているのを発見している。事業所の廃止後も便所だけ利用価値があったので壊されずに残ったのだろう。
 道の反対にもプレハブ小屋がたっている。燃料庫跡だったと思う。手前のL字型のコンクリートは以前来たときは階段だったが、今は皮だけ残して内側が洗い流されている。
 更に奥へ。

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