伊尾木林道小川線跡5


 時刻は13時半。歩き始めて6時間を突破した。かつて奥安居で6時間行軍したのが自分の最長記録だったが、それを大幅に塗り替えることになるだろう。ひょっとすると、人生で最長かも。

軌道は全体的に盛り土による施工が施されている。途中に橋があったようだが、橋台は無残に崩れ落ちている。しかし水に濡れない部分は50年近い放置を経過しても綻びがない。職人の技術の高さを窺い知れる。
 谷へ降りられるようにワイヤーが垂れているのは、偶然か。
 この丸太は偶然じゃないかも。
 橋を渡ったところはすぐに切り通しになっている。ここでは比較的短い距離に三つの切通が設置されている。
 少し離れて二つ目。
 三つ目は二つ目と隣り合っている。
 三番目の切り通しの横にレールが落ちていた。路面より高いところにあったので、何らかの理由でここに置かれたのが回収から漏れたようだ。
 やがて、小川川の支流を渡る。地形図にはこの支流は書き込まれていないが、二つの谷が合流しており、一年中流れが途切れることがなさそうだ。この付近を地形図で見ると、等高線が面白いことになっている。
 横から見る。橋は短かったようだ。
 起点側の橋台は著しく原型が損なわれている。その断面は痛々しく、ある種のグロさに似た感覚を覚える。
 終点側も角が取れており、ここから徐々に崩壊が始まり、限界に達したある時、一気に崩れ落ちるだろう。
 画像からも分かる通り、橋台の向こうにはまた切り通しが造られている。
 その切り通しを過ぎてしばらく行くと、比較的大きい橋の跡があった。
 水は流れていなかった。雨の後だけ現れる川のようだ。橋台はどちらも山手に向かって曲がって設置されている。曲線橋というやつだな。
 反対から見ると、曲がり具合がよく分かる。・・・はずだが、写真が小さい。
 橋を過ぎると、岩盤を削りとった区間に入った。植生が少なく、路体の変状もなく、硬い印象を受ける。
 しばらく歩くと、尾根先を回る長い切り通しが残る。珍しく大きく崩れている。
 溝の中もこんな感じである。地質の関係だろうか。ところで、この頃自分はとあるものの出現を期待していた。
 1975年の空中写真である。マウスポインタを乗せると近年の画像に切り替わる。↑の切り通しは左下の矢印の辺りだ。少し上流に大きな屋根が見える。事業所跡である。プレ調査の過程でこの屋根に気づき、現状の確認を当初からの目標の一つに掲げていた。まあ、現代の空中写真には建物の形は残っていないのだが・・・・。とはいえ、探したいものがある。

地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)より。筆者加工。
 そしてそれは静かに忍び寄ってきていた。
 この看板が皮切りとなった。色褪せているが、イラストから察するに、野鳥保護を訴えるものだろう。そして看板の下にある滑車付きの部品は、集材機のワイヤーをガイドするものだろうか。
 そこから近いところには、ご覧の三点セットが棄てられていた。
 手前の一番目につくところには大型のモーターが置かれていた。
 側面、目立つ所に精電舎の表示がある。銘板には東京蒲田の表示もあった。
 これが銘板。大きい割に100Vで動くという点に最初は驚いたが、よく見るとモーターではなく発電機と書かれていた。大きいのに100Vしか出ないんだな・・・・・。単相交流100Vということは、一般的な商用電源と同じ電気だ。事業所の電気はコレ一台による自家発電で賄われていたのだろうか。その当時は今のように、何でもかんでも電気で動かしていた時代ではないだろし、足りなくもなさそうだが。この発電機はフレームに固定されており、エンジンを据えていたと思われるボルトの穴も開いていた。
 発電機と一緒に制御盤も捨てられている。電圧計は水が入って緑色になっているが、電流計は気密が保たれているらしく、綺麗に残っている。拾って帰ろうかと一瞬考えたが、そこは理性を保った。
 制御盤の銘板。何故か英語表記だが、同じ精電舎製で製造が39年3月と近いので、発電機の付属品と見ていいだろう。
 後ろの方に転がっているコレは自転車だ。現代のような洒落っ気のないごつい実用車というカテゴリーの自転車だ。へー、自転車って腐るとこんなになるのか・・・・。
 泥除けには白山というエンブレムが付いていた。また、TSUKANO CYCLE WORKSという社名らしき文字も確認できる。このメーカーは廃業してしまったのか、google先生もだんまりであった。まあ、昔は今よりも自転車メーカーは多かっただろうし、記録に残らず消えていったメーカーも数多くあっただろう。オートバイメーカーでさえ、「雨後の筍」だったのだから。
 三点セットの物色中、すぐ下の斜面に非常に気になるものを見つけた。
 それはトロッコの台車のように見えた。
 台車付きの車輪を発見したのかと一瞬舞い上がったのだが、よく見ると構造がヘンだ。フランジを覆うように鉄板が巻き付いているが、内側に石綿のようなものが貼り付けられており、制動装置になっているようだ。つまり、この鉄板の幅と同じぐらいフランジが厚いことになる。コレでは転轍機を通過できそうにない。また、全体的に華奢な印象を受ける。トロッコとは無関係だろうか。保線で使う手押しトロッコの残骸という説もなくはないが。せめて巻き尺があれば、車輪っぽい部分の間隔を測れるのだが。装備品に入れておけばよかった。
 そして斜面の下には屋根が見える。コレがお目当ての事業所跡だ。
 うーん、ぐっちゃり逝ってますなあ。まあ、空中写真からは予測できていたし、ブログでも明らかになっていたし、今更衝撃とは感じなかった。
 事業所跡への道は、少し戻った所から分岐していた。
 事業所跡へ向かう道中も、貴重な資料を見つけることが出来た。サビサビの看板だが、コレには枝打実施個所と書かれている。
 その年度の欄には昭和43年という数字が残っている。ここにあるからといって、この看板がここに設置されていたと断言することは出来ないものの、昭和43年頃まで軌道が現役だったのことを意味しているのかもしれない。
 ものの数分で事業所跡地へたどり着いた。それでは家捜しと行こうか。

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