土讃線大歩危トンネル旧線その4
第十橋梁跡。
ここは高巻き。非常に短い橋だ。
岩原方面。ちょっと草木が増えてきたかな〜とは思うが、まだまだ歩きやすい。
第じゅu・・・これはただの開渠。
斜面の上に土留の擁壁が見える。擁壁自体は珍しくもなんとも無いが、たまたま目立つ所に施工年が陰刻してあった。長年災害と戦い続けてきた記録だ。ところで見た感じこの斜面は勾配がゆるそうだ。空中写真を見る限り、ここもアクセスルートになり得る。
第11橋梁・・・、でいいのかな? 現存しているので"跡"ではない。
そのすぐ先に短い切り通しが見えているが、中は崩落で埋まっている。
向こう側が見えないぐらい完璧に埋まっている。崩土を乗り越える途中で
くくり罠
が設置されていた。そう言えば少し手前に
標識
がぶら下がっていた。今はトラバサミみたいなヤベー系の罠はないはずだが、とりあえず気をつけようと思った。
それにしても歩きやすい。いつもの林鉄歩きと比べれば天国のよう。探索もいいペースで進んでおり、そろそろ中間点を過ぎたかな?という頃。
少し行くと久しぶりにトンネルが現れる。第三トンネルだ。
隧道内。やや施工に粗が見られる。
第三トンネル出口。
そこからまもなく第12橋梁跡。
大歩危側の橋台。特に特徴はない。いかにもある時期に量産されたという感じだ。そしてとにかく谷が深い。林鉄と違って線形が良いので構造物の規模も大きくなりがち。歩きやすい所はとにかく歩きやすいが、地形が大きく変わる所はそれなりに過酷だ。
踏み跡を通って谷底へ降りる。
谷底には大きな橋脚が一本立っている。2径間の橋だったようだ。橋脚は中間ではなく南側に寄っている。
岩原側の橋台。
線路跡に上がると機械箱の基礎があった。これも落石検知あたりか?? すぐ横には
レール
が一本立っている。保線通路の手すりに使っていたやつだと思う。
12橋梁の先の軌道跡。相変わらず歩きやすくてありがたい。何故か石油ストーブの
燃料タンク
だけが落ちていた。上からの不法投棄か、保線小屋でも近くにあったのか・・・?
対岸を見ると、ちょうど下名第2洞門のところだった。ずっと"しもな"と思っていたが"しもみょう"と読むらしい。国道側からは植生のために廃線敷の確認は難しいが、こちら側からだと国道はよく見える。
大きな基礎が残っている。保線小屋があったのかもしれない。
そのすぐ横に第4トンネルが口を開けている。
このトンネルはやや右に曲がっているようだ。しかし奥から光が差し込んでいるように、延長は長いものではない。
トンネルに入ると即出口が見えた。その先にはもう次のトンネルが控えている。
第4トンネル出口から岩原方を望む。ほんの10〜20m先に第5トンネルが口を開けている。その間はわずかながら明かり区間となっているが、竹や倒木が横たわり、土砂も流れ込んで少し荒れている。
元は暗渠だったようだが、入り口が詰まって軌道敷の方まで溢れてきているようだ。この谷には林鉄跡みたいなノリで
レールが一本墜落していた
。フェンスの支柱か土留の杭として打ち込んだものが流出しここで引っかかったのだろう。
第4トンネル出口。
坑口のすぐ横に白いペイントの跡がある。ここにはトンネルの番号とトンネル名とキロ程が書かれていたはずだ。手前のトンネルにもペイントの跡はあったが、いずれも四角い跡がわかるくらいで、内容や文字数すら判別できなかったのでスルーしてきた。ここも下のトンネル名は判読できないが、上のキロ程の部分はうっすら「K89M00」と読める。手前のキロポストがおそらく67.5キロだったので、68K89Mと書かれていたのだろう。
前述のように、ポータルにこういった感じで銘板代わりのペイントがあるのだが、軒並みこのような状態で文字は判別できない状態になっている。
トンネル内。他所とそう変わった点はない。こんなの所に木が生えている。坑口から多少陽が差すとは言え、選りに選ってこんな所に根を下ろすとは。君は大きく育てなさそうだね。
トンネル出口は即橋梁になっている。
後ろに下がることができないため、引いて全体像を写すことがない。
この第5トンネルは特筆すべき点として、唯一例外的に銘板(銘書き?)がトンネル内にある。
理由は多分、坑口の継ぎ足しだ。少し離れたところに陰刻が施してある。1957年にこの部分の工事をしたということだ。坑口の上からポロポロと石が落ちてくるのを防ぎたかったのだろう。旧坑口は断面がひと回り小さく、一目瞭然。
新しい坑口のすぐ前は絶壁で足場がないので、元の場所に書くのが難しくなったか、それとは関係なしに最初から雨風の影響を受けにくいトンネル内に移したのかもしれない。
いずれにしても他所と比べていくらか新しく、雨風の影響が小さかったので比較的良好な状態で残ったようだ。 良好とは言っても右端の字が山だと分かる程度で、左の字はかなり掠れて判別できなくなっている。あくまで比較的"である。一文字目は横棒、二文字目は鍋蓋が使われた漢字のように見える。この付近で山で終わる地名と言えば、自治体名にもなっている西祖谷山が浮かぶが、山の隣の字は谷には見えない。それにもっとローカルな地名のはず。地図を開いて、この付近の〜山で終わる地名を調べてみた。〜山で終わる地名はいくつかあったが、一文字目に横棒、二文字目に鍋蓋が入る漢字という条件に一致する地名は見当たらなかった。
第5トンネルの名前が気になって夜しか眠れないので、今回は少し本気で調べてみることにした。図書館に通い詰めて資料を探したが、あいにく高知や四国の図書館では資料が揃わなかった。最終的に九州の図書館のお世話になってどうにか資料を手に入れた。トンネル名は左表の通りである。今いる第5トンネルは第二南山トンネルとなる。南山とは盲点だった。南山は旧西祖谷山村の小字の一つである。地形図には出ていないが、グーグルマップだと表示される。てっきり三文字の名称だと思っていたが、四文字で頭に第一第二とつくとは考えていなかった。鍋蓋だと思っていたのは南という字の十の部分だったようだ。意外にも、榎や土日浦や吾橋といった、地形図に出てくるメジャーな地名はトンネル名には採用されていない。
副産物として橋梁のデーターも手に入ったので載せておく。「鉄道廃線跡を歩く」には橋梁は13ヶ所と出ているが、残っているコンクリート橋を引いても数が合わない(トンネルの数と間違えたかな?)。困ったことに第9橋梁(森善)〜11橋梁(中井谷)のデータが一致しない。
第9橋梁 それで、もう一回調べに行くことにした。ついでに第15,16橋梁ももう一度見たい。榎集落からだと少し遠いので 八坂神社の下から斜面を下って67.5キロポストの近くに降りた。
これが真の第10橋梁である森善橋梁らしい。横から見るとデータ通りコンクリートアーチ2連だと分かるが、上からだと気づきにくい。自分もフツーに見逃したか、暗渠と勘違いしたみたい。これにより、自分が第10橋梁だと思っていたのは第11橋梁となる。
第12橋梁は短い桁と長い桁の組み合わせ ※1全通当時(昭和11年頃)のデータ |
話を第5トンネル出口に戻す。第13橋梁もとい城瀬谷橋梁跡を望む。資料の通り、間に橋脚のない一径間の橋だったようだ。橋梁名になっているように川(谷)の名前が城瀬谷と言うのだろう。対岸には次のトンネルが控えている。よく見ると、その奥にさらに次のトンネルも見える。
例によって足元は絶壁である。
なのでこっちへ進む。
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