土讃線大歩危トンネル旧線その6
歩き始めて早3時間たった。およそ3/4の距離を歩きおわり、今第一、第2岩山橋梁のところにいる。ここは最初の調査(2021.01)ではあまり詳しく見なかったので、追加調査(2021.12)の写真も交えて紹介する。
まず全体像だが、この部分の全景は今では写すことが難しそうなので、建設当時の写真を拝借。向かって左が大歩危。橋梁一覧
では第一岩山橋梁はコンクリートアーチ3連、第二はアーチ6連+RC桁10連となっている。しかし写真を数えてみると、左側だけでもアーチが12あり、右にもいくつか見える。アーチが多い理由は、「付近の景勝を損なわないため拱擁壁(アーチ)施工とし、美観を添えた」と写真のキャプションで説明されていた。お陰でアーチのどの部分が橋だったのかわからなくなっているが。
なおこの写真はトリミング加工してある。全体はこちら(サイズ大)
アーチは落石の少し手前の部分から始まっていた。だが、最初の3つは埋め戻されている。
埋められた理由はおそらくアーチの変状だ。大きなクラックが入っている。その上数センチ程度横方向へのズレも認められる。この亀裂は反対側にも及んでいる。ゆっくりと地すべりを起こしているようだ。
そう言や、下の斜面もコンクリートで固められている。これも多分地すべり対策だろう。
斜面の下から1−3番目のアーチ全景。
同じく4,5番目。4番目のアーチには水路のようなものが残っている。今は土砂でふさがっているが、昔は貫通していたような雰囲気もある。多分アーチ4を含む連続した3つ(234か345)が第一岩山橋梁だったのではないかと予想している。上の過去の写真だとアーチ3の所が低くなっているのでアーチ2〜4が橋かな? 中には雑物が残っていて、川漁師が物置に使っていたようだ。
斜面の上から第一岩山橋梁を俯瞰する。土砂で埋まってそこが橋だったとは一見わからない。資料がなければ自分もきっと知らないままだっただろう。
同じ所から右を見てみる。写真は落石防止柵に掴まりながら撮った。擁壁の裏が見えている。擁壁の裏は溝になっていて、水の流れた痕がある。
溝を追いかけてみると集水桝に続いていた。1960年と陰刻が施してある。これも自然災害との戦いの1ページだったようだ。集められた水は線路の下のヒューム管を通って吉野川に流れていたようだ。(写真はない)
6−8番目のアーチ。
6番目のアーチは完全に岩地に接していて、過去に貫通していた雰囲気はない。上から見ても間に溝などはなく、すぐ横は法面になっている。
アーチ7以降は貫通していて反対側に通り抜けられる。また建設当時の写真
を見ると、アーチ5,6あたりの地面が高く山なりになっていて、アーチ7あたりからまた地面が低くなっている。このことから、第二岩山橋梁はアーチ7以降だったのではないかと予想している。
アーチ8−11。建設当時の写真と見比べるとだいぶ埋まってきていることがわかる。
アーチ10−12。アーチ12から先はコンクリート桁10連が始まっている。
軌道跡から第二岩山橋梁を見たところ。上から見た感じ、見た目にわかるような変化はなく、境目はわからない。
アーチから桁に変わる所。アーチ部は橋面がフラットだが、桁部は側端部に地覆(橋面より高くなった部分)がある。その差が何なのかは専門家ではない自分にはわからない。アーチ部より橋の幅が狭いみたいなので、バラストを溢さない目的だろうか。
何番目の桁か忘れたが、銘書きが残っていた。第二岩山と書かれていたはずだが、掠れて微かに一部の数字が読めるだけになっている。あと
碍子
が落ちていた。日付は1961年7月。TGは旧東海碍子(現TGケラー)のマークらしい。
桁からレールがはみ出しているところがあった。橋の一部を壊して作られているので後年付け足されたものだと考えられる。待避所かな?
反対側。落石でもあったのかな? コンクリートが割れて鉄筋が露出している。異形鉄筋ではなく丸鋼なのが戦前らしい。
画像を3枚つなげてパノラマもどき。
岩原側より第二岩山橋梁を見る。そう言えば、3ページ目で第六橋梁が一番長いと書いたのだが、
橋梁一覧
によるとこの第二岩山橋梁が最長だった。まあ最初の探索のときは資料が無かったわけだし、撤去済みという条件なら間違いではない。
コンクリート桁橋が終わり、再びアーチが始まる。一番上の写真
で「こっちにもアーチ」の部分。切断された落石避けの残骸が点々と残る。
下の斜面から見た、桁橋とアーチの変わり目。第二岩山橋梁の範囲が自分の想像通りならここが終端になる。
そしてその場合、このアーチは飾りのための物となる。うっかり撮影を忘れたが、このアーチは貫通していなかったと記憶している。またこれも写っていないが、アーチに混じって五角形の穴もあった。トンネルの中で見た退避坑もどきに似ていた。セメント節約だろうか。
反対方向。測ったわけではないが、落石覆いはそこそこ長い距離設置されていたように感じた。なおこの付近のどこかに通商産業省の見通し標が設置されていたらしいが、自分は気付かなかった。「鉄道廃線跡を歩くV」には立った状態の写真が載っているが、マフ巻氏らが探訪した頃にはすでに倒れていたというから、もう腐り果ててしまったのかもしれない。
ここにも機械箱のあと。落石覆いにに検知器が取り付けられていて、ワイヤーがここに引き込まれていたのだろう。
そのすぐ先にまたトンネルがある。過去の写真にも写っている第9トンネル(第一山子)だ。
追加調査はここまで。第9トンネルからはまた2021年1月の様子。
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