咥内坂

 高知市と伊野町の境は、咥内坂という小さな峠状の地形になっている。現代の感覚からすれば、峠と呼ぶのも馬鹿らしいぐらいの小さな高低差だが、明治時代以前は紙の町伊野と高知の間に鎮座する唯一の難所として、旅人、とりわけ紙の原材料や製品を運ぶ運び屋たちにとって、大きな難所として知られていた。現代の咥内坂は、東西に国道33号線が横切り、それに沿って土讃線やとでんの軌道が走り、更には高知自動車道が南北を貫く交通の要衝になっている。かつて当サイトでは、廃線コーナーにおいて、この咥内坂にとでんのトンネルがあったことをお伝えしている。では、国道の方は一体どうなっていたのであろうか。その前に現在の様子をまず見ておこう。


地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)より作者加工

これは2014年の咥内坂の空中写真である。で、次が1947年の咥内坂である。


地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)より作者加工

 土讃線の線路だけは形が変わっていない。国道は左上と右下のくねくね道がそうだったのがわかる。そしてかつてお伝えしたとおり、とでんは咥内坂隧道をくぐっている。旧国道は土讃線と踏切で平面交差し、とでんのトンネルの上部を通っていたことがわかる。咥内坂隧道は明治時代の伊野線開通時に掘られたもので、大型のボギー車両が通過できず、輸送上のボトルネックとなっていた。また、国道の交通量も年々増加しており、改良工事が望まれていた。そのため戦後、咥内坂の改良工事が行われ、峠を数メートル掘り下げ、とでんのトンネルを撤去の上で、国道と電車軌道の直線化が行われた。この過渡期の咥内坂を写した空中写真も残っている↓


地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)より作者加工

更に拡大。


地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)より作者加工

 1962年の空中写真である。注目すべきは、工事中の新道と軌道を跨ぐ陸橋の存在である。国道を仮設橋で迂回させ、工事を行っていたのである。今回は旧道の調査と、この仮設橋の痕跡が残っているかがテーマとなっている。

 ラーメンのほうれん草(旧ラーメンの豚太郎咥内店)前から。店の前のスペースは旧道敷かと思ったが、昔はここまで山が迫っていたようだ。
 左の建物は吉村デンソー。当初は店の前のスペースを旧道敷だと考えていたため、この建物は旧道敷に建てられていると考えていた。
 建物を挟んだ反対側から。旧道時代は直線だったと思っていたが、現在と同じように曲がりくねっていた事が空中写真からわかった。
 同じ場所から頂上側を見る。空中写真ではこの当時、周囲は田畑ばかりだったことがわかるが、現在は宅地化している。
 咥内の電停の向かい付近。昔はとでんの軌道しかなかったため、旧道はもう少し北側に張り出していたはずである。
 更に登ると、舗装がコンクリートになり、明らかに坂がきつくなっている。そう、国道はここで右に曲がっており、土讃線の踏切へと向かっていた。
 家の横の畑が旧道敷だろう。
 そのすぐ裏手に土讃線があり、踏切になっていた。
 そしてすぐに左に折れ、少しの間線路沿いを走っていた。1947年(二番目の空中写真)は道路と線路の間に若干の隙間があるが、工事中(三番目の空中写真)はすぐ線路沿いに直されていることがわかる。
 そして一番手前のこの辺りに橋が架かっていたようだ。
 国道の北側に移動した。伊野方面を見る。
 明治時代の同地点を撮影した写真が残っている。昔は峠に民家が建っていたこともわかる。昔はここには一軒の茶屋が建っており、ここで一服休憩して行くのが通行人のお決まりであった。
 近辺には古いガード柵が残っている。
 それから旧道は高知市側と同じようにくねくね曲がりながら坂を下ってゆく。
 そしてCHIKAMIの前で新道と合流する。
 反対側から。これが咥内坂の旧道の全容である。



で、仮設橋の痕跡はどうなのよ?っと。
 というわけで、後日仮設橋の痕跡を調査することにした。並行する高知西バイパスの部分開通により、咥内坂は旧道落ちしているものの、未だに咥内坂を通過する車両は数多い。私はチキンなのでなるべく人目につかないよう、朝の六時台に調査をした。写真は高知市側より咥内坂を見たところである。土讃線の陸橋が横切っている。咥内架道橋・・・・だったはず。
 架道橋は土電の上部と国道とで構造が異なっており、後年付け足されたというのがわかる。
 本題であるが、まず仮設橋の正確な位置を知る必要がある。幸いにして、この仮設橋を間近で撮影した写真が残っている。軌道の移設工事は完了しているが、国道の改良工事が終わっていないという、絶妙なタイミングで撮影されている。

(高知新聞社発行「戦後50年・高知」より引用)

右下の影の部分は坑口の前のカーブだった部分だろう。それを少し伊野方面に行ったところに架かっていたようだ。
 まず北(とでん軌道)側を見る。特に痕跡らしいものは見当たらない。綺麗にコンクリートで塗り固めてあり、当時の様子をとどめてはいないようだ。
 では南側はどうだろうか。あっさりとそれらしき構造物を発見した。
 四角いものの脇からスロープのようなものが降りてきている。
 登るとすぐ間近に石積みの橋台を見ることができる。どうも主桁を置く台の部分がないように見えるが、仮設であるから簡単な構造で造られていたのだろうか。
 土讃線に面してところには、国道とを仕切るガード柵とみられる構造物が残っていた。
 道界標も。
 それより奥は濃いブッシュとなっている。枯れているのでこれでも一番見通しの良い状態だ。夏場ならこの場所に立つことすら出来なかっただろう。

以上、何気なく通っている道にも歴史が詰まって入るということを実感できる探索であった。

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