土讃線周志トンネル旧線(2022)1


 2021年初頭にずっと塩漬けだった大歩危トンネルの旧線を踏破し、土讃線の災害対策で振り替えられた7か所の旧線を制覇した。大歩危トンネルの旧線から僅か500mくらいのところには周志トンネルの旧線の旧線がある。しばらく森林鉄道跡ばっかり歩いていて、久しぶりの土讃線が楽しかったので「このまま周志を再訪したろか」と思って、結局しなかったというのはレポに書いたとおりである。しかしその後、周志トンネルの旧線でやり残していることがあるのを思い出した。それで結局、1年後の22年年始に周志を再訪することにしたのだった。

 四国山地は地質が脆く、斜面が急峻で雨量が多いという、地すべりを発生させるには好条件が揃っている。それで阿波川口駅から土佐北川駅の間には防災目的で7か所のルートが変更されている。周志トンネルはその3番目の事例である。所在地は徳島県境に接する大豊町岩原地区にあり、土讃線が県境を跨ぐ土佐岩原大歩危駅間にあたる。当時の報道に拠れば、山の斜面に巾400m、平均高20mの断層が横たわっており、月当たり5mmの速さで吉野川へ移動していたという。改良方法としては、過去の事例と同様に山の内部をトンネルで抜ける案と、鉄橋を架けて対岸へやり過ごす案が検討されたが、最終的に過去の事例に倣ってトンネルで地すべり地塊を避ける案に落ち着いた。工事は鉄道建設興業(現鉄建建設)が1億8280万円(当時)で落札し、1955年10月末から翌8月末までの工事でこれを完成させた。これにより2本のトンネルと3本の橋が放棄され、土讃線は126m伸びることになった。通常なら新線を作れば延長が短くなるものだが、断層を避けるため山側に大きく迂回したためである。周志トンネルの延長は845mである。以下簡単に周志トンネル完成までの流れ。

 

1954年(昭和29) 国鉄技術陣、大歩危岩原間の抜本対策を検討トンネルに決定
1955年夏頃地盤調査を行う横坑を兼ねる試掘坑を掘削
 10月6日岩原工事事務所発足 
   15日大阪市にて入札会旧鉄建興行が落札(落札額:1億8280万円)
 11月末 起工式前に一部の作業に取り掛かる
 12月14日起工式
1956年2月2日徳島口と試掘坑の間が貫通 
 3月30日貫通式当初24日の予定だったが出水で延期された
 7月11日セメント固め終わり 
 8月13日レール敷設完了 
   18日監査 
   19日試運転 
   25日開通 
    

 

 冒頭の通り、ここは2009年に一度探索をしていて、今回は"やり残し”を消化するのが本筋である。しかし15年ぶりの訪問だし、当時の自分ではできなかった発見があるかもなので、初めて来たつもりで隅から隅まで見直そうと思う。

 

参考文献:四鉄史、高知新聞


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行き方は前回(2009)と同じである。土佐岩原駅前を北へ行き、町道岩原周志線に入る。しばらく細い山道を登っていくと、断崖の途中に周志橋という川のない橋が架かっている。そこを過ぎて県境近くまで行くと、画像のような道が膨らんだ場所に出る。そこに駐車する。そういや前回来たときはまだ中折ケータイ全盛期で、i−mode版のyahooマップを見ながら車を走らせてきたもんだった。GPS? そいつは食えるのか?  画像


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 ガードレールの切れ目から山道が伸びているので進む。


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 この道は自分で見つけたのではなく、「四国の鉄道廃線ハイキング」という本で紹介されたものである。


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 道がつながっているのは途中の墓地までで、線路跡まで伸びる道はない。前回は本を持ってくるのを忘れてうろ覚えの状態で、北の斜面を下って川に降りてしまったため、えらい苦労をした。


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 今回は尾根の高いところを選んでとにかくまっすぐ進んでみた。最適解かは分からないが、結果的には前回よりもスムーズに旧線跡に降りることができた。


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 山を下る途中、旧線敷よりもだいぶ高い位置に用地杭があるのを見つけた。土讃線は地滑り災害が多かったので、沿線の斜面を買い上げて広く鉄道林を敷設していたそうだ。これはその名残かもしれない。


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 下り始めて20分強で旧線敷が見えてきた。14年ぶりに足跡を刻む。


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 とうちゃこ。前回のレポを見ると、町道から旧線敷まで40分掛かったと書いてあるので、倍近い快足である。適切なルートを選んだことと、十数年の経験の賜であろうか。


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 すぐ北は有瀬川が流れており、かつては鉄橋が架かっていた。なんだか懐かしいな。橋梁名は境谷橋梁。有瀬川橋梁じゃないの?と思ったが、この川が徳島と高知の県境になっているのでそのせいだろう。


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 対岸は立木で見通しがすこぶる悪いが、辛うじてトンネルが見える。


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 さて、前回はどうやって対岸へ渡ったんだっけ? さっぱり記憶がない。・・・ああそうか、前回はここよりも上流で谷底に降りたんだっけ。


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 橋台の周囲は段差が大きかったので、通り過ぎて少し吉野川の方から川を渡った。


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 下流側より見る境谷橋梁跡。橋脚はない。資料によると延長19.2mの上路鈑桁(プレートガーター)の橋だったようだ。多度津側の橋台の周りは切り立っていて登れなかったが、もう少し左手の方にゆるい斜面がある。


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 川を渡って徳島県上陸。トンネル入口到着。いや高知側なので出口か。チェンジ後は前回(2009)の画像。入口に陣取ってる木が少し成長している。


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 「おひさしぶり」と声を掛けたくなる懐かしい光景が広がっている。


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 前回来たときはあんまり細かく観察しなかったケド、意外と細々したものが残っていたんだな。


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 ココの壁はこんなに汚かったかしら。


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 この土砂は前回あったっけ? 今さら盛りに来るような場所じゃないのであった筈だ罠。なんの意味があるのかはわからない。壁の穴はセメントの節約のためで、土讃線のトンネルでは普遍的なもの。壁が崩れているわけではない。


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 トンネルの多度津口には斜めに仕切り状の構造物が作られている。この構造物について言及した資料は今のところ見たことないが、すぐ横を新線のトンネルも抜けているので、補強ためだろうというのは想像に難くない。


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 元は親切に昇降用の足場が設置されていたのだが、前回来たときすでに錆々で辛うじて形が残っているような状態で、今回はもう完全に消え失せていた。


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 補強のための仕切りは数えなかったが4つだったと思う。最後の仕切りは板が渡されていて外からアクセスしやすくなっている。おそらくこのスペースを保線の合間の休憩スペースや簡単な物品置き場に使っていたんだと思う。前回来たときも食器や資材(と言うかゴミ)が無造作に置かれていたのを覚えている。ゴミ画像は相変わらず置かれたままだったが、ラインナップは殆ど変わってなかった画像


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 トンネルを出るとすぐ横を新線が走っている。


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 トンネルから数メートル出たところで撮影。左が新線の荒神山トンネル。この旧線が紹介されるときは「周志トンネル旧線」という名前で紹介されるので、作られたトンネルは周志のトンネルのただ一本だけみたいに聞こえるが、実際には2本のトンネルが新設された。土讃線に7か所ある旧線で唯一である。

 ところで、長らく旧レポにて右側の旧トンネルの名前を島の本トンネルだと紹介していた。ところが一昨年、大歩危トンネルの旧線のトンネルの名前を調べる過程で民営化後の土讃線のトンネル一覧を見つけたのだが、その中に廃棄されていたと思っていた島の本トンネルの名前があることに気づいた。これでは同じ名前のトンネルが連続していることになり、不自然である。あるいは、第一島の本トンネルと第二〃があって、片方が廃止されたので第一を取ったのかもとも思ったが、後ほど入手した開通当初の隧道一覧でも、島の本トンネルの次は荒神山トンネルになっていたので、自分が適当を吐かしてていたことが確定したのだった。(マジサーセンした)

  どうしてこのような間違えが起こったのだろう。実は周志トンネルの新線は、新旧の切り替え点がどちらもトンネル内にあり、新線の線形に合わせて抗口を拡幅する工事を施されている。昔読んだ資料には、改修した事実こそ書かれていたものの、どんな工事をしたか具体的な点までは書かれてなく、ただ単に改良とだけ書かれていた。また拡幅の痕跡が顕著な高知側(潰谷トンネル)に比べ、多度津側の島の本トンネルは工事の規模が小さく、前回の訪問のときに工事の痕跡に気付けなかった。それで昔の自分はこの改良を、一本丸々掘り直したと勘違いしたらしい。片方のトンネルは周志トンネルだとわかっているのだから、消去法的に荒神山トンネルの横の廃トンネルのことを言っているのだろうと判断してしまったのだった。


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 結論:島の本トンネルは自分が思っていたやつの一個となり(この画像)のトンネルである。眼鏡トンネルは両方とも荒神山トンネルである。


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 近影。線沿いを歩くと倫理とか危険が危ないとかあるので左の藪の中を進んできた。上記の通り、新線の線形に合わせて抗口を拡幅してある。と言っても小規模の工事だったようで、あまり違和感がない。実際15年前には気づかなかったわけだし。土木工事を生業にしているとか、予備知識があって初めて分かる程度だ。自分は再訪なので、現地で自分の目で見たときは工事の範囲がわかった。今写真を見返してもどこに手が加えられているかわからない。拡幅の巾は一番広いところでも1mあるかないかぐらいじゃないかと思う。


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 荒神山トンネルの方を見る。以前の訪問では新旧の坑口が並んでいる様が見えていたが、この十数年で木が育って旧トンネルは隠されてしまった。


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 トンネル内に戻る。


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 トンネルを出る。


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 高知側の坑口は新線が大きく迂回しているせいでやや離れている。見ようによっては、後付けで複線化したように見えなくもない。


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 周志トンネル。





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