土讃線大歩危トンネル旧線その1



 急峻な四国山地によって南北に隔てられた四国では鉄道を通せる場所はごく限られている。特に徳島高知県境では、海沿いを除いては吉野川沿いが鉄道を通せる唯一の場所と言っても過言ではない。 しかし四国山地は脆い地質と断層の影響から地すべりを起こしやすく、大歩危峡を擁する吉野川中上流域は多雨地帯でもあるから、地形の急峻さと相まって過去に何度も災害に見舞われてきた。 そのような所に敷かれた土讃線だから、開通当時から地すべりや土砂崩れに悩まされた。 多少の雨でもよく崩れたので、「アブが小便すると崩れる」だとか、「ドッサンドッサンと土砂が落ちるからドサン線」などと冷やかされた。運休を伝える地元紙の紙面には「土"惨"線」などという言葉が並んだ。大げさなと言いたくいなるが、雨の降らないときでさえちょくちょく落石していたらしく、あながち実態とかけ離れているわけでもないというのが恐ろしい所。 繰り返し何度も土砂災害を起こしたり、いずれ起こすだろうと予期される所に無限にリソースを注ぎこむよりは、ルートを替えてしまうほうが効果的で抜本的かつ恒久的な対策となる。昭和25年に山城谷トンネルが掘られたのを皮切りに計7本のトンネルが掘られ、新ルートに切り替えられた。


阿波川口-小歩危山城谷トンネル昭和25(1950)年11月
大田口-土佐穴内和田トンネル昭和29(1954)年3月
大歩危-土佐岩原周志トンネル昭和31(1956)年8月
土佐岩原-豊永大志呂トンネル昭和38(1963)年4月
大歩危-土佐岩原大歩危トンネル昭和43(1968)年11月
大杉-土佐北川大杉トンネル昭和48(1973)年2月
大豊トンネル昭和61(1986)年3月

 自分はこのうち6ヶ所は調べたが、大歩危トンネルの旧線については手つかずになっている。それはここが土讃線の旧線群で最凶の廃線跡だからである。別に誰かがそう認定したわけではないが、踏破が困難なことは確かなはずだ。 第一に土讃線の旧線群の中ではダントツに距離が長い。大体4キロはある。単に長いだけでなく、エスケープできるところが少ない。並行する車道とはだいぶ標高差があって、100メートルから高い所だと300メートルくらい離れている。およそ1キロの地点に集落があって、そこは例外的に容易にエスケープできるが、残りの3キロは逃げ道がない。そして架かっていた橋がすべて撤去されているので、高巻きや沢渡りが必要になるが、全体が吉野川沿いの険しい斜面に張り付いているので、突破には技術がいる。土讃線の旧線群を好んで調べていたのはもう10年以上も前のこと。この頃の自分はこれほどハードでロングな廃線歩きを経験したことがなく、二の足を踏むには十分だった。 そして気がつくと10年超経過していた。



↑今回も地理院地図

 大歩危と言うと舟下りと奇岩で有名な大歩危峡が浮かぶかもしれないが、単に"大歩危"と言う場合は高知県の大豊町の一部までも含む広い範囲を指すことが多い。大歩危峡は土讃線で言うと小歩危-大歩危間に当たるが、そこは四国山地では例外的に崩れにくい地質なのか、今日でも全通当時のルートを維持している。 大歩危トンネルがあるのは大歩危峡よりも南側(上流)の、大歩危-土佐岩原間である。 昭和37年に土佐岩原-豊永間で発生した大規模災害をきっかけに土讃線災害対策委員会が設置され、ルート変更が必要な箇所の洗い直しが行われた。大歩危-土佐岩原間では既に昭和31(1956)年に高知県側で周志トンネルへの切り替えが行われているが、この度さらに西祖谷山村の榎-土日浦間及び谷軒でもルートの変更が指摘された。ここは年間に2〜3センチも地すべりを起こしている危険箇所で、この2ヶ所を一度に解消すべく当時四国最長となる4179mの大歩危トンネルが計画された。工事は昭和41年に始まり、昭和43年11月25日の始発列車より共用された。以下ざっくりと大歩危トンネル開通までの流れ。


昭和40年(1965)6月大歩危-土佐岩原間の調査を行う 
    10月25日国鉄本社に新トンネルの設置を上申 
 11月測量,ボーリング調査の開始 
昭和41年2月予備工事を開始 
    4月1日着手現地銘板による
    6月大歩危側より掘削開始 
    8月土佐岩原側より掘削開始 
昭和42年10月導坑が貫通 
昭和43年7月トンネル本体完成 
    9月線路敷設完了 
    10月17日試運転 
    11月25日供用開始,開通式 

 旧線跡の現状については、上記の通り鉄橋が撤去されていて高巻きや沢渡りが必要になるが、幸いにもトンネルはすべて開口しているようだ。とはいえ近年に情報についてはほとんど転がっていない。ブログやSNSで行ったことを仄めかす書き込みは散見されるが、まともなレポートはweb上にあるのはマフ巻氏平成17年のレポだけのようだ。一方書籍では宮脇俊三氏の「鉄道廃線跡を歩く」シリーズをはじめ、知る限り3冊で取り上げられている。webより書籍のほうが多いあたり、プロ向けの非カジュアルな初心者バイバイな物件なのかもしれない。自分はプロではないかもしれないが、踏んだ場数は少なくないはずだ。この頃の林鉄歩きで自分も随分と鍛えられたはずだ。伊尾木林道の支線ではこれ以上の距離を丸一日掛けて歩き通したこともある。もはや大歩危に二の足を踏む理由など無いはずだ。無いと信じたい。それなら思い立ったが吉日、久しぶり普通の鉄道廃線を楽しもう。そして土讃線旧線を制覇しよう。

2021年1月4日探索

 



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 こちらは大歩危駅。特急停車駅で、大歩危観光や祖谷渓観光の中継点になっている。大歩危(オオボケ)の"ボケ"(ホキ)とは大きな崖(とりわけ川崖)を意味する言葉。つまり大歩危は大きな崖を意味し、地名と言うよりは地形を指す言葉だったが、時経つうちにだんだんと地名として定着したもの。大歩危駅も元来は阿波赤野駅と呼ばれていた。興味深いことに、赤野というのは吉野川の対岸にある集落で、実際に駅があるのは徳善と呼ばれるところである。しかも開通当時から平成の大合併まで、吉野川を境に別の自治体に分かれていた。つまり隣村の地名を駅の名前にしたことになる。隣村の顔を立てたということだろうか。


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 旧線が分岐しているのは駅から500mくらい高知県側に行ったところなので、ここからはまだ見えない。間にトンネル(現役)が一本があるのだが、それすらも見えていない。さて、大歩危の旧線は踏破するのは大変だが、跡地に降り立つだけなら容易な部類だ。大歩危駅から南東に1.5キロくらいの所に榎という集落がある。大歩危峡周辺の集落は谷底を避けて山の中腹以上の高所に切り開かれているが、この榎集落は例外的にかなり吉野川に近い所に降りてきている(古い地すべり跡か?)。そこから降りるのが定石だ。かく言う自分も踏破を目指すのは今回が初だが、前述のルートで何度か旧線跡に降り立ったことがある。しかし今回はそこへは行かないつもりだ。線路跡の途中に降りることになり効率が悪いし、個人的には起点側より一筆書きで踏破するのに美学?を感じているので、なるべく大歩危駅に近いところから旧線に降りたい。


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 とりあえず移動開始。大歩危駅を背に県道(旧有料道路)を登っていく。やがてカーブの突き当りにタイヤ屋がある。そこから右に道が別れているのでそれに入る。これは榎集落を目指す場合と一緒。


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 するとすぐカーブミラーが2本立っている。二番目の所に階段画像があるのでこれを下る。


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 途中に廃屋画像があるがこれには目もくれず下ってゆく。踏み跡があるので基本迷わないと思うが、土讃線との距離を意識しつつ下流側へ下ってゆく。


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 やがて土讃線の橋梁の横に出られる。 銘板画像によると家見谷橋梁というらしい。おそらく旧線も。


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 左を見ると橋脚が2本並んでいる。黒く汚れているのが旧線だ。新線は昭和の国鉄らしくコンクリート橋だが旧線は鉄桁だった。新線の足場?で一部が削られている。


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 橋台も仲良く2つ並んでいる。


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 横から登れるようになっている。新線が超近い。列車の時刻を把握して、あんまり長居しないほうが良い。新旧分岐点はすぐ先のロックシェードの辺りかな。


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 頭を引っ込める前に後ろ側。左奥の新線上に大歩危トンネルが口を開けている。旧線の橋脚は2本あるが足場の陰で奥のやつは見えない。旧線橋はカーブしていた。


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 切り替え直後の写真が残されている。「祝大歩危ずい道開通」の横断幕も誇らしげ。入り口に徐行標のようなものが見えるが、地固めが済んでないのかな?

四鉄史より引用(モノクロ写真)


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 こちらは試運転中の一コマ。DF50が穴から顔を出している。旧線上をキハ58(28?)が走行している。写っている電柱は同じものだろうか?

高知新聞1968年10月18日朝刊より引用


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 そのまま橋を渡っていければ楽なのだが、色々とまずいのでとりあえず谷底へ。谷底から見上げた橋脚。随分と高いところを走ってるんだなあ。吉野川が作った渓谷は深い。


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 記念碑か何か?


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 飛び石を伝って川を渡る。1月のこの時期でも水量はやや多い。


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 水量はどうでもいいが、自分の目論見とは裏腹に藪が濃い。


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 失敗したかなあ・・・・、と思ったが、少し横にずれるとなにもない斜面だった。


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 ともあれどうにか旧線跡には降り立った。いや上り詰めた。大歩危側を見たところだが、木が育って見通しが悪くなっている。


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 こちらは2010年の撮影。奇しくも同じ1月4日の撮影だった。木が育って無くて視界がクリア。


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 すぐ横には大歩危トンネルの入口が口を開けている。こちらも近づき過ぎるのは良くない。銘板?画像には65.8キロの表示が見える。実は小歩危-大歩危間にも第一から第三まで大歩危トンネルがあるので、実質的には第四大歩危トンネル。


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 もう一個の銘板。1号型というのが気になったので調べてみると、直流電化用のトンネルらしい。土讃線の電化の準備とかだったらドラマチックな話だが、非電化路線でもトンネル断面を大きくしなければならない事情がある場合に1号型のトンネルを掘ることはあるらしいので、ここもその例かもしれない。むしろ土讃線は小断面のトンネルが多く電化が困難と言われている。それ以前の話として電化するほどの需要が(殴


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 自分のゆくべき方向。さすがは国鉄路線、いつもの林鉄跡の比ではない道幅がある。行く手にはトンネルが見えている。


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 土讃線の旧線跡ではよく見かける鉄製電柱の跡。随分ペラい鉄板で作られているようだ。上の引用した写真(高新の方)には切る前のが写っている。


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 対岸には国道32号が走り、コンクリート工場が建つ。こちら側が川で文明と切り離されているように感じる。


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 そしてドドンとトンネルが現れる。




               


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