土讃線大歩危トンネル旧線その7



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 時刻はまもなく正午になる。一時間におよそ1キロのペースで移動している。回り道したり観察したり写真を撮ったりしながらなので悪くないペースだろう。

 いま正面にあるのは第9トンネル(第一山子)だ。見た通り、入口と出口がいっぺんに見える小さなトンネルだ。トンネル一覧画像によれば、延長も15mとこの区間では最も短い。土被りが非常に浅く、開削してしまわなかったのが不思議だ。落石覆いの役割を期待したのかな? 天井には亀裂画像が走っている。 今すぐとは言わないが、そう遠くない内に無くなるかも。


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 中にはU字溝がいくつか落ちていた。配線用の細いやつ。


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 第9トンネル岩原口。


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 トンネルを出たところにも機械箱の跡。結構たくさんあるので見逃した奴もありそう。


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 すぐ先に橋梁の跡。山子橋梁(第17)だ。二径間の橋でしっかり資料と一致。
 トンネル名にも使われている山子という地名だが、これも地図では見つからなかった。しかしこの辺のどこかに山子林業画像というのがある(あった)みたいなので、地元でしか知られていないマイナー地名として存在するようだ。


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 大歩危側の橋台。岩を利用している。堆積した落ち葉を払ってまでは確認しなかったが、橋座(橋桁を置く一段下がった所)は削りっぱなしの岩地ではないかと思う。でっかい林鉄みたいだな。


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 橋脚。近いので飛び乗れる。(乗らんでよい)


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 岩原側橋台。次のトンネルも見えている。


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第10トンネル(第二山子)。第一トンネルと瓜二つだ。延長も1m違いの16m。土被りは非常に薄いどころか無い。完全に一度開削した所に蓋をした感じだ。


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 出口。無論、過去の写真画像とも一致。


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 出口前で邪魔をしているのは炭窯の跡。廃止後ここで誰かが炭を焼いていたようだ。炭は一日で焼けるようなものではない。窯を組んで木を敷き詰めるのには手間がかかるし、火を入れたら付きっきりで番をしなければならない。誰かがこの山に通い詰め、あるいはもしかしたらトンネルで寝泊まりしながら作業したのかもしれない。トンネル内に残された猫車画像オイル缶画像といった遺物は炭窯の主が残したのだろう。


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 近くに橋や川を渡れそうな所は見当たらない。窯の主は山から転がり降りてきたようだ。古い空中写真には、斜面のすぐ上に大きな農家が写っている。そこの人かな?


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 ちなみにここは国道32号線下名トンネルの覆道のほぼ真横。普段この角度で見ることはないので、旧道の様子や覆道の上の斜面がかなりの高さまでセメントで固められていることを初めて知った。


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 少し明かり区間が続く。ここにも鉄骨を切って回収した残骸が残っている。一部の土台がずれたり転がったりしている。これでは落石の衝撃を受け止められない。落石検知のワイヤーを貼っていた支柱の跡らしい。


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 第18橋梁跡(森影谷)。最後から2番目の橋梁だ。


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 かなり谷が深い。これは一瞬「行けるか?」と迷った。


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 一応行けるは行けた。橋台のすぐ前を螺旋を描くように下る。


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 そして一旦起点側の方に戻る。下に降りてからここもアーチが連続していたことを知った。


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 対岸から見るとここのキツさがよく分かる。逆打ち(南→北)していたらだいぶ難易度が違っただろうなぁ。


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 岩原側橋台。谷さえ降りてしまえば、こっち側の傾斜は幾分マシ。


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 岩原側より大歩危側を見る。その5の冒頭で城瀬谷のところを3番目の難易度と言ったけど、ここも割と難しかった。


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 岩原側を見る。


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 これは何かな? 基礎がないので機械箱の跡ではなさそう。保線員の待避所かな? いやでもよく見ると埋設溝が埋まっているっぽい。信号機でもあったのかな?


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 明かり区間がしばらく続いた後、草木に隠れて第11トンネルが見える。トンネルも残す所あと3本。


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 第11(鵜之石)トンネル。出口が見えない。ここまで小ぶりなトンネルばかりが続いてきたが、ここに来てついに長大トンネルの出現か。なんだかワクワクするわね。


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がっかり
 曲線を描いていて出口が見えなかっただけだった。目が暗さに慣れると出口の光が壁に反射しているのが見えた。


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 とは言え、流石に中間付近はかなりの暗さ。資料画像には延長は138mとあり、この旧線で最長のトンネルとなる。それでも差し込む光がバラストに反射し、なんとか地面の凹凸が把握できる。洞内に障害物もなく、蹴躓げる心配もない。この日の探索で懐中電灯が必要になるシーンは結局なかった(あくまで通過を目的とする場合)。

 ところでこのトンネルにも見慣れたセメント節約の横坑画像があるが、この写真を見る限りではその坑は他のところより深く見える。流石にトンネルが長いので保線員の待避所を兼ねさせているのかも。(ちなみに法律上は50mおきに待避所が必要らしい。戦前の規則もそうなのかは知らんけど)


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 出口が近づき明るさが戻ってきた頃、洞内に変化があった。コンクリートの土台に切られた鉄骨の跡。


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 反対側の壁にも同じものがある。トンネルの壁と天井に沿ってアーチを描いていたというのは想像に難くない。1957の陰刻から後付けだとわかる。すぐ傍らには意味深なコンクリートの塊。


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 塊が何処から来たかと言うと真上の天井からだ。黒く不気味な穴が空いている。コンクリートを打ったときの空気抜きが不十分だったみたい。漏水もあるらしく、コンクリート鍾乳石らしき物が形成されている。ここを押さえるために鉄骨で補強をしたわけだ。こんなものまでご丁寧に回収してしまうとは。落ちている塊は穴の大きさよりも小さく見えるが、残りの破片は何処へ消えたのだろう? 砕けて散らばったのかな。あるいは現役時代に一度崩落を起こし、割と最近二度目を起こしたのでは・・・・? ここの補強は撤去しないでほしかった・・・。


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第11トンネル岩原側坑口。


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 ここの坑口は二重になっている。継ぎ足したのかな?と思ったが、この感じは水路かな。


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 出口前から岩原方を望む。残る距離は500mを切ったと思われる。間にトンネルを2本と橋梁一つを残しているが、線路跡はまた明かり区間に入った。




               


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