土讃線大歩危トンネル旧線その3



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 斜面のトラバースにかかる。橋台脇から斜面へ。


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 林鉄サイズのレールが埋まっている。工事用にトロッコを敷いていたのだろうか。


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 橋台近影。ここも嵩上げしたような痕跡がある。また橋台の周りもセメントで固められている。地滑りで変状したのだろうか。


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 そして正面には橋脚が鎮座している。やっぱり林鉄と違って国鉄の橋脚はでかい。林鉄とは走る車両の重さも速度も桁違いだ。土讃線の旧線を走った車両で一番重いのがどれか正確なことは知らないが、D51を走らせた実績があるので120トンぐらいに耐えるように作ってあるのは確か。


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 前半は比較的傾斜がゆるく、難易度は低く見える。


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 しかし後半以降はかなり傾斜がきつく、道も細くなる。 一番狭い所画像だと片足を乗せるのがやっと。これは人の歩く道ではなく獣道だな。無理だと思ったら無理せず榎集落に迂回したほうが良い。


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 岩原側橋台。


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 岩原側から見た橋脚。何dのセメントを使ったのだろう。


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 真下。タマが縮み上がる思い。


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 橋台から即、第二トンネルが口を開けている。このトンネルも出口が見える程度の長さ。


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 ここには枕木が多数残されている。おそらく現役当時のままに。


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 写真では分かりにくいが、壁にはひび割れが目立つ。地盤がヤワでトンネルに変圧が加わっているのかもしれない。


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 第二トンネル出口。なんかえらく土被りが薄いな。これなら開削してしまっても良かった気がするが、落石よけで敢えてトンネルにしたのだろうか。


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 トンネルを離れ2分ほど行くと第六橋梁跡。


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 大歩危側の橋台。橋台の後ろの地面が ひび割れ 画像てコンクリートが露出していた。ひょっとして倒壊の前触れ?


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 第六橋梁はおそらくこの旧線で一番長い。それでも橋梁に並行して平場があるので通り抜けはかなり容易。


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 斜面は途中からコンクリートで固められている。これも地滑り対策か。


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 数は数えなかったが、橋脚は結構な数が林立していた。


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 岩原側より第六橋梁跡を見る。


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 同じところから岩原方面。前方が崩落している。


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 マフ巻き氏らが調査した平成17年頃は崩落から間もなかったようで、何も生えていない赤い地面が露出していたが、現在ではススキが蔓延っている。この斜面を下ってくるのが旧線跡に降り立つ簡単な方法の一つ。10年前の自分もここから降りてきた。


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 崩落を過ぎるとまた元の廃線跡に戻る。この付近は榎という集落の最下層に当たる。家屋が建っているのは線路跡からは少し上の方なのでここには見えない。最も線路跡に近い所に建つ家は2004年から空音遊(くうねるあそぶ)という古民家宿になっているので、それを目指してくれば分かりやすい。


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 この先は自分にとって完全に未知の領域。先駆者のレポートや廃線本で紹介されているので、一応ぼんやりと概要は把握している。線路跡はススキが目立つが、藪漕ぎが必要なほどではない。と言っても季節やその年の気候によるので次の年以降も楽に歩けるかはわからない。


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 この付近から築堤になっている。


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 第七橋梁跡。


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 ここは沢渡りで。


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 反対側から第七橋梁跡を見る。


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 同じところから岩原側を見る。線路脇にスロープがある。少し離れたところには 一段高くなっている 画像所があった。昔はこの辺まで家か畑が広がっていたようだ。


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 あまり間をおかず第八橋梁。


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 大歩危側の橋台。 アーチ画像になっている。


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 岩原方の橋台。こっちは普通。


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 岩原側の様子。


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 さらに第九橋梁


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 ここもトラバース可能。間には橋脚が一本。


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 岩原側橋台。


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 岩原側より第九橋梁跡を見る。


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 またまた距離標を発見。前回のやつから500m以上は歩いているはず。67.5キロポストと思われる。


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 立木の間から対岸が見えた。国道32号沿いに二棟の建物が見える。右側の建物はマザーグースの森の廃店舗。32号を通るときは(母の希望で)よく立ち寄ったのを覚えている。下階の窓から吉野川を一望できて、対岸にも道のようなものがあるのを不思議に眺めた幼い頃の記憶がある。隣の喫茶店は営業中。確か相互に行き来できたような。




               


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